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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      若越国司の補任状況
 若越の国司に任命された役人については『資料編』一の巻末に示されているが、そのうち奈良時代を中心に、一部平安時代も含んで特徴あるものに限って少し説明を加えておこう。
 奈良時代の若狭国守には、高橋氏・安曇氏の者が任命されていることが注目される。そのうち、高橋子老は宮廷の食膳を預る内膳司の役人であったことが国史にみえるが、元来これら二氏は律令制以前より宮廷の食膳に奉仕する伝統を有していた。彼らが国守になったのも、若狭の国が「御食国」と呼ばれて、古くから宮廷に食物を貢納していたことと無関係ではない(狩野久『日本古代の国家と都城』)。
 若狭国守と中央政界との関係についてみれば、神護景雲二年(七六八)に守に任命された葛井立足や、宝亀二年(七七一)に守に任命された雀部道奥は、いずれも恵美押勝の乱の鎮圧に功績があって従五位下に叙せられた者である。その間に、高橋氏とライバル関係にあった安曇石成が国守になったことについて、道鏡との結びつきを想定する見解がある(『小浜市史』通史編上)。
 なお、天応元年(七八一)に守に任命された船木馬養は、越前国出身の豪族で献物によって叙位された者である(献物叙位については四項)。
 越前国司について気づくのは、中央での政治的事件にかかわった人物が数多くみえることであり、さながら奈良時代政治史を通観する感がある。「関国」として北陸道さらには日本海への通路をおさえる重要な位置から考えればそのことは十分理解できる。
 まず、天平十七年(七四五)九月に守に任命された佐味虫麻呂は、長屋王の変で王の宅を囲んだ人物である。次に守として任命された藤原宿奈麻呂はのちに良継と改名するが、藤原氏のなかで反仲麻呂派の中心的人物であった。さらにその次に守となった大伴駿河麻呂は橘奈良麻呂の変に連座して長く不遇な目にあった人物である。なお、掾となっていた大伴池主は万葉歌人として知られているが(第七章第一節)、彼も奈良麻呂の変に加担している。
 天平勝宝九歳(天平宝字元年、七五七)に起きた橘奈良麻呂の変には、越前国司に関係する人物が多数登場する。先に述べた大伴駿河麻呂・大伴池主などのように奈良麻呂の側にたって処罰された人びとがいる一方、もと橘氏と関係を有していたが、政敵の藤原仲麻呂の側に寝返った人物もいる。佐味宮守は、奈良麻呂の父で左大臣の橘諸兄の「祗承人」であったが、諸兄が飲酒の席で無礼な言辞を吐いたと密告した人物である。彼はこの功績で従八位上から一挙に従五位下に昇進しており、変の直後に「越前介」とみえる(写真50)。
写真50 「越前国司解」(寺7)

写真50 「越前国司解」(寺7)
 この密告の件について、今度は越前守に任じられていた佐伯美濃麻呂が勘問されたが、美濃麻呂は佐伯全成が知っているだろうと巧妙に切り抜けた。彼は奈良麻呂の変でのこの「寝返り」もあってか、恵美押勝の乱の前には従五位上まで昇進するが、乱の直後出羽員外守(定員外の長官)、また天平神護二年(七六六)五月に能登員外介に任じられた。これは左遷人事かと思われる。なお、美濃麻呂は越前国守在任中に東大寺領荘園をめぐる争いでは東大寺に不利な判決を下している。
 佐伯美濃麻呂ののち、天平宝字三年十一月に藤原仲麻呂の子の恵美薩雄が守に任命され、乱の直前の宝字八年正月にこれまた仲麻呂の子の辛加知に交替している。このように仲麻呂はより露骨に越前国支配権を直接手にいれようとしたさまがうかがえる。仲麻呂は乱を起こして再起をかけてこの越前の辛加知と連絡をとろうとしたが、先回りした官軍に愛発関で撃退され、辛加知も斬られて彼の思惑どおりにならなかった。
 ところで、仲麻呂政権期の越前国司は、たんに守のみでなく介以下の人事でも、仲麻呂の側近や家政事務を行う官人層を送り込んでおり、その国務掌握策は徹底していた。たとえば、佐味宮守は先述したとおりであるが、長野君足は員外介として在京し、仲麻呂が主導した保良宮造営にあたっている。介の高丘枚麻呂は、以前仲麻呂が権勢を築く足場となった紫微中台(のち坤宮官)の少疏・大疏になっており、太政官の書記官である大外記をも兼ねていた。ただ彼は仲麻呂の乱に際してはそれを密告し、従四位下に叙されている。同じく介の村国虫麻呂は、恵美押勝家の「知家事」であった。なお仲麻呂は、越前のみでなく東への交通路をおさえる近江・美濃の国司にも自家に仕える人物を国司に送り込んでいたことが知られている(渡辺直彦『日本古代官位制度の基礎的研究』)。
 ところで、目のなかには姓のみしかわからないが、上毛野君(公)姓を称する者がいるが、これは足羽郡道守荘に広大な墾田を有していた田辺来女の戸主としてみえる上毛野奥麻呂のことと考えられている(岸俊男『藤原仲麻呂』)。なお田辺来女の墾田は、仲麻呂の乱後に没収されて東大寺のものになった(第五章第一節)。
 さて押勝の乱後には、藤原継縄・藤原雄田麻呂(のち百川と改名)という、のちの光仁・桓武朝の重臣となる人物が相次いで守に任じられている。とくに藤原百川は称徳天皇没後の光仁天皇擁立の画策の中心人物で、光仁天皇の腹心の部下ともいうべき人物であった。また、そののちに守に任じられた藤原内麻呂は右大臣にまで昇進した人物として特筆される。
 このように平安初期までは越前国司、とくに守には当時の政権と関係の深い人びとが任じられていたことが歴然としている。ところがその後は越前国司に特別な政治的な傾向性を見いだすことが難しくなる。これはあるいは延暦八年(七八九)の三関廃止にみられるような、「関国」としての独自の地位が失われていったことと関係あるのではなかろうか。
 最後に平安時代の国司について一つだけ指摘しておくと、文章生が北陸道の掾に任命されるというルールが形成されることが注目される(法六〇・六一)。それは唐人・渤海国人との交渉を行うためであるが、酬唱文学の隆盛と大いに関係する(第七章第一節)。実際に文章に巧みな人物として名をなした嶋田忠臣・橘広相・藤原佐世・紀貫之などが九世紀後半から十世紀にかけて相次いで掾(権掾)に就任しているという実例がある(第五節)。



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