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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      足羽郡の郷(里)
 足羽郡には、『和名抄』(高本)に安味・額田・足羽・草原・小名・江上・井手・中野・岡本・江沼・野田・上家・川合・利苅・曰理の一五郷を載せる。一方『和名抄』(急本)では野田・上家・川合・利苅の四郷を大野郡に入れるが、『和名抄』以外の史料によりこれらは足羽郡に属していたことが確かめられるので、間違って混入したものとすべきであろう。また同本では、「小名」を「少名」とし、「曰理」はみえない。「国司解」には、以上の『和名抄』諸にない郷名として、江下・伊濃がみえる。

表21 足羽郡郷(里)名

表21 足羽郡郷(里)名
 安味郷は「国司解」にみえる。「阿味駅」の所在とかかわらせて論じられることが多いが、第三節で詳しく述べられているように、阿味駅は今立郡域にあったので、足羽郡の安味郷は不詳とせざるをえない。
 額田郷も「国司解」にみえる。貞享二年(一六八五)の「越前国絵図」によると、福井市海老助町付近の日野川に「糠」の渡しがみえ(『福井市史』資料編別巻 絵図・地図)、これを額田部の転化とする説があるが確証を欠く。
 足羽郷に関しては、平城京左京三条二坊六坪出土の木簡に、「北宮(長屋王の妻吉備内親王)御物俵」に付けられた「阿須波里」からの荷札がある。この出土地は長屋王邸跡と向かい合う南側の場所であるが、長屋王家木簡のなかにも北宮にあてたと考えられる「足庭郡足×(羽里か)」と記載された木簡がある。郷の比定地は式内社の足羽神社が鎮座する足羽山周辺である。
 草原郷は長屋王家木簡にみえるほか、東大寺領道守荘に関する文書に多く現われる。すなわち「国司解」にみえるほか、道守荘の水守をしていた宇治智麻呂の所貫郷(寺四二)、および同荘に墾田を売却した百姓の本貫の郷としてもみえる(寺五三・五五)。また道守荘のものと考えられる「足羽郡草原三宅」があった(寺一四)。このようにみてくれば、当郷は道守荘に比定される足羽川・日野川に囲まれた部分の近くに存在した可能性が大きい。
 少名郷は高本では「小名」につくる。「国司解」では「少名郷」であるが、道守荘への墾田売却にかかわる文書では「小名郷」とある(寺五〇)。また平城京二条大路木簡に「少名郷」、長岡京木簡に「少郷」とみえる。訓みは『和名抄』(急本)によれば「乎多」とする。一方『延喜式』左右馬寮に、左馬寮田として「少名庄」がみえ、「ウスナ」の訓を付す。比定地については左馬寮少名庄との関係で、福井市寮町あたりと考える説がある。
 江上郷は「国司解」にみえる。松岡町芝原一帯がもと芝原江上村とあったことから、この地に比定することができる。
 井手郷は「国司解」に「井出郷」とみえる。長屋王家木簡には「井手里」、長岡京木簡には「井出郷」とある。比定地は不明である。
 中野郷は「国司解」や道守荘への墾田売却にかかわる文書(寺五〇)、さかのぼっては平城京二条大路木簡にもみえる。比定地については福井市中角町とする説と同市中ノ郷町とする説がある。
 岡本郷も「国司解」と墾田売却関係文書(寺五七)にみえる。旧吉田郡岡保村(福井市街の東部、吉野ケ岳の西麓)をあてる説があるが確証はない。
 江沼郷はほかに史料はなく、比定地も不明である。
 野田郷は「国司解」にみえるが、ほかに天平神護二年九月の「足羽郡司解」(寺三五)や同十月二十日付「足羽郡司少領阿須波束麻呂解」(寺四二)によれば、当郷所貫の百姓が東大寺と用水や境界について争っていたことがわかる。また寛平五年(八九三)十二月二十九日付「太政官符」(編四五一)によれば、気比神宮の神封郷に指定されていたことがわかる。なお平城宮木簡にも郷名がみえる。足羽郡条里の呼称として道守村西北三条十一・十二里(福井市運動公園付近)を「野田(西)里」とするが(寺四五)、これが郷名と関係するか否か不明である。
 上家郷は「国司解」にみえるほか、栗川荘で東大寺と墾田の所有をめぐって争った百姓や道守荘へ墾田を売却した百姓の本貫の郷としてみえる(寺三四・五一)。『和名抄』(急本)は「加豆以倍」の訓を付すが、福井市南部の主計中町の地名との関係からこのあたりと推定する説が有力である。
 川合郷は「国司解」にみえる。日野川・九頭竜川合流点の北側に川合(河合)を冠する地名がいくつか残るが、このあたりと考えられる。
 利苅郷は「国司解」にみえるが比定地は不明である。
 曰理郷は「国司解」や長岡京木簡にみえる。福井市街西方日野川東岸に大渡・小渡の地名があったことからこの地に比定する説があるが、その地名は後世のものとも考えられ、確証を欠く。
 江下郷は『和名抄』にみえないが、「国司解」・平城京木簡・長岡京木簡にみえる。また天平勝宝九歳「生江臣家道女貢経文」(文四〇)によれば家道女の本貫の郷としてみえる。さきにみた江上郷と対になると思われるが具体的な比定地は不明である。
 伊濃郷も『和名抄』に載せないが、「国司解」にみえる。比定地は不明である。



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