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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      丹生郡の郷(里)
 丹生郡からはのちに今立郡が分かれるが、ここでは両者を合わせた分郡前の丹生郡について述べる。『和名抄』(高本)では賀茂・野田・丹生・岡本・可知・朝津・三太・芹川・大屋・酒井・味真・勝戸・服部・中山・船津・曾博の一六郷、『和名抄』(急本)はこれらに加えて泉・従省の二郷を載せ、服部郷は勝部郷とする。
 賀茂郷(鴨里)は「国司解」、平城京二条大路木簡、長屋王家木簡にみえる。諸説一致して賀茂神社のある清水町大森付近に比定する。
 野田郷は現在のところ奈良時代にさかのぼるかどうか不明であるが、鯖江市西部の上野田・下野田付近に比定することで諸説一致をみている。なお比定地の北にある持明寺遺跡(鯖江市持明寺町)からは「里長」と記す墨書土器(『福井県埋蔵文化財調査センター年報』平成元年度)および「野郷」と記す墨書土器が溝跡から出土している(福井県埋文センター『持明寺遺跡』)が、この野田郷と関係するのかもしれない。
表20 丹生郡郷(里)名

表20 丹生郡郷(里)名 
   注1 凡例は表19の注1〜5と同じ。
   注2 木簡の欄の数字に*を付したものは、館野和己「若狭・越前国関係木簡補遺」(『福井県史研究』10)
      に収録されている木簡番号のことである。

 丹生郷は「国司解」にみえ、これまで比定地については武生市丹生郷町あたりとされてきたが、昭和六十三年に同町内での発掘調査が行われた。この丹生郷遺跡からは、倉庫と思われるものを含む掘立柱建物七棟や土壙・溝などが検出されたが、大溝から「丹生郷長」「五月郷」と記した墨書土器が出土した(第七章第一節)。柱穴出土の須恵器から建物の時期は八世紀後半と考えられており、墨書土器が出土した溝の出土遺物も八世紀中〜後期のものが多いという。なお「五月郷」については当時存在した郷かどうか、今後検討を要する。
 岡本郷は、「国司解」や長屋王家木簡にみえ、比定地は武生市岡本町付近と考えて間違いないであろう。
 可知郷は、従来これを「可禮」の誤りとみて近世の山干飯郷(武生市)にあてたり、「乎知」の誤りとして越知山(丹生郡朝日町)の山谷一帯にあてたりする説がある。しかし、天平勝宝五年六月十五日以前のものと考えられる「仕丁送文(または優婆塞貢進文)」(文二四)に「丹生郡勝郷」とみえるのがこの郷をさすと考えれば、それらの説はあたらず、不明とせざるをえない。ただ「勝郷」をあとに述べる「勝戸郷」のことをさすという説もある。
 朝津郷は『和名抄』に付せられた訓では「アサフヅ」とよみ、長屋王家木簡にみえる。福井市南部の浅水町に比定することで一致をみている。
 三太郷は「国司解」に「弥太郷」とみえる。比定地については式内社の「大山御板神社」との関係を想定し、その神社はもと鯖江市舟津の西方の王山の山上にあったと伝えられることから、その周辺と考える説が有力である。そのほか清水町三留をあてる説もある。
 泉郷は高本にみえず、『和名抄』以外で確かめられるのは、現在のところ嘉応元年(一一六九)十一月の「権大僧都顕ー解」(文一九六)が最も古く、最勝寺領大蔵荘の東に「泉郷」が接していたことがわかる。大蔵荘は鯖江市大倉町付近に比定されるから、その東側一帯をあてることができる。なお、大倉町の北方に小泉町の地名が残る。
 従者郷も高本にみえず、急本は「従省」につくるが、長屋王家木簡に「丹生郡従者里」がみえ、奈良時代にその存在が確かめられ、かつ「従者」が正しいことがわかる。高本敦賀郡の「従者郷」の項の訓に「之度无倍下同」とあり、「下同」とは丹生郡の従者郷のことを指示していると考えられるから、高本の丹生郡従者郷は筆写の過程で脱落したものと思われる。比定地は日野川上流域の敦賀郡従者郷に隣接した北側の地域を想定しうる。
 次に、のちに今立郡に含まれることになる諸郷(里)について述べる。芹川郷は「国司解」にみえる。比定地は不明であるが、「国司解」によれば天平三年の時点で岡本郷戸主であった佐味公入麻呂はのちに芹川郷戸主佐味磯成の戸口としてみえる。合法的に所貫の郷をかえる例はこの時代にほかにもみられるが、近隣の郷どうしの移住ないし郷域の変化と考えることができるならば、芹川郷は岡本郷の近辺にあった可能性がある。
 大屋郷は長屋王家木簡や優婆塞貢進文などの奈良時代の史料にみえる。武生市に大屋の地名が残り、この地域にあったことは間違いない。
 酒井郷は「国司解」にみえる。『亀山院御凶事記』嘉元三年(一三〇五)五月二十三日条にみえる「酒井庄」を今立町東庄境・西庄境付近に比定し、そのあたりを郷の故地とする説があるが、確証がない。むしろ建久六年(一一九五)十二月三十日付「官宣旨案」(『鎌倉遺文』二)に「真柄保」を「酒井東」とする記述に注目し、武生市上真柄・真柄の西方に比定する説のほうがよいと思われる。
 味真郷は郷名としては奈良時代にさかのぼる史料は現在のところ知られていないが、『万葉集』に「安治麻野」がみえる(学一九)。武生市東部の文室川・鞍谷川のつくる扇状地帯に味真野町の地名が残る。古代の郷もその付近にあったと考えられる。
 勝戸郷も奈良時代の史料にみえない(可知郷のところでふれた「勝郷」を当郷のこととする説がある)。訓は高本に「以曽へ」とある。比定地は訓によって鯖江市磯部町にあてる説が有力である。その地には式内社の石部神社がある。
 服部郷も奈良時代の史料を欠く。比定地は今立町東部の服部川流域の服部谷をあてる見解が有力である。
 中山郷については和銅七・八年の年紀をもつ長屋王家木簡に「丹生郡中山里」「丹生郡中津山里」とみえる。今立町中津山付近がその故地である。
 船津郷は奈良時代の史料にはみえない。鯖江市舟津町付近に比定することができる。式内社名には「丹津神社」がみえるが、「舟津神社」の誤りであろう。同名神社が舟津町内にある。
 曾博郷は天平十七年の年紀をもつ平城宮木簡にみえる。読みは急本に「曾波久」、高本に「曾波之」とある。
「曾博王神」「曾博枌枉神」「曾博神」などが今立郡から大野郡にかけてまつられており(「越前国惣神分」『神祇全書』五)、南条町堂宮の鵜甘神社の祭神に「曾博王神」がある。また池田町常安の王神の森は曾博王神がまつられていた所と推定する説がある。これまでの郷の比定地の残りのうち、池田町池田谷を中心とする地域が当郷の故地であった可能性が高い。なお平城宮木簡の戸主の姓として「牟儀都」がみえるが、近くの美濃国武義郡との交流がうかがえる。



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