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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      遠敷郡の郷(里)
 次に、奈良時代の遠敷郡の阿遠(青)郷(里)以外の一一郷について調べてみよう。遠敷郷は、この文字で書かれるとともに、小丹生・少丹生という書かれ方もあるが、藤原宮木簡では遠敷郡の前身を小丹生評と表記するように、遠敷という用字はより新しい。郷里制の里としては、小丹里・億多里が知られる。このうち前者は小丹生里とすべきものであり、おそらく二文字の地名にするため一文字を省略したのであろう。古代の地名については、一項でふれたように和銅六年(七一三)五月に「好き字」をつけるように命じられたが、これに関連する『延喜式』民部上には「凡そ諸国部内の郡里等の名は、並びに二字を用い必ず嘉き名を取れ」とある。地名は二文字にするように定められていたのである。この小丹生里は、郷名と同じであり遠敷郷の中心的集落であったと考えられる。その故地は小浜市遠敷付近であろう。後者の億多里は、文永二年(一二六五)三月「若狭国中手西郷内検田地取帳案」(東寺百合文書『資料編』二)に、億田里一里・二里・三里の名がみえることが注目される。これは小浜市高塚の「奥田」「上奥田」という小字名に引き継がれたと考えられる。それは同市遠敷の西に隣接する地である。

表17 遠敷郡郷(里)名

表17 遠敷郡郷(里)名
 丹生郷は木簡にも丹生里として登場する。その位置は、式内社である丹生神社が鎮座する小浜市太良庄付近にあたろう。そこは北川をはさんで遠敷(小丹生)と相対する所である。
 玉置郷は藤原宮木簡では、玉杵・手巻と書かれ、平城宮木簡でも早い時期の和銅六年の年紀をもつものでは玉杵とあるし、手枕と表記するものもある。玉置郷に属する里としては、田井と伊都・伊波が判明している。玉置の名は現在も上中町の地名として残っているが、里の比定地はいずれも不明である。ところで玉置で注目されるのは、玉置駅家である。その名は『延喜式』兵部省や『和名抄』(高本)という駅名を伝える史料にもみえないが、平城宮木簡により天平四年九月段階で玉置駅があったことは確かである。これは玉置郷に駅が置かれていた時期があることを示している。『延喜式』や『和名抄』にみえる遠敷郡の駅は濃飯駅である。したがってある時期に玉置から濃飯へと駅の所在が変化したわけであるが、それは天平勝宝四年(七五二)十月「造東大寺司牒」(文二二)が語るように、玉置郷五〇戸が東大寺に封戸として施入されたことが契機であったと考えられる。
 安賀郷は木簡などの奈良時代の史料に登場せず、奈良時代にまでさかのぼる郷であるか不明であるが、その位置は上中町安賀里のあたりに比定できよう。
 野里郷は藤原宮木簡にすでに野里としてみえるものに相当しよう。平城宮木簡にも野里・野郷の名がみえるが、郷里制下のものには野郷野里とするものがある。本来は「野」が地名であったのに、それに里が付いた「野里」が地名に変化したとみられる。これは、地名は二文字という原則に従うためであろう。ここには平城宮木簡によって、野駅家が置かれていたことが知られる。これは『延喜式』や『和名抄』にみえる濃飯駅であろう。天平勝宝四年以降、玉置駅からここに遠敷郡の駅が移動したとみられることは先に述べたところである。濃飯というのも、「の」を二文字地名にするための表記であろう。その位置は上中町上野木・中野木・下野木のあたりであろうか。そうであれば、そこは玉置のすぐ西であり、駅の移動の影響を最小限にくいとめることができるわけであり、ここに濃飯駅の位置、ひいては野里郷の所在を求めてよいと考えられる。郷里制下の野里はその中心に位置したのであろう。
 志麻(急本では志摩)郷は平城宮・京木簡に嶋郷の名で登場する。また郷里制下のものには、志麻郷宇庭里と書かれた木簡がある。それは天平十九年二月「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(文一三)にみえる「若狭国乎入郡嶋山佰町四至四面海」の地にあたり、まさに名前のとおり島であった。それは現在では砂洲により陸とつながっている大島半島とみる説と、文永二年十一月「若狭国惣田数帳案」にみえる志万郷のあった内外海半島から阿納あたりにかけての地域に比定する説とがある。「四面海」という表現からすると前者に有利であり、シマ郷の名を伝えているという点では、後者に分がある。しかしいずれにしても宇庭里の位置は不明である。今後さらに郷里制下の里名が判明すれば、いずれの比定が妥当かわかるであろう。 『和名抄』(急本)にはこのほか余戸郷と神戸郷を載せているが、いずれもその故地を明らかにすることはできない。
 次に、のちに大飯郡に所属することになる郷に移る。阿遠郷以外では大飯・佐文(急本では分)・木津の三郷がそれである。まず大飯郷は木簡にはみえない。しかし式内社の大飯神社が大飯町山田に所在することから、佐分利川下流域に比定されよう。
 佐文(分)郷は平城宮・京木簡に多くみえる。すなわち佐分里・佐分郷・佐文郷と両様の表記があるし、郷里制下のものも佐分郷式多里・岡田里がある。その名を伝えるものに大飯町の佐分利川がある。したがって佐文(分)郷はその流域にあったとみられるが、下流域には大飯郷があったとみられるから、より上流域に求められよう。岡田の名は現在も佐分利川左岸に残る。したがってそのあたりから上流部に比定できよう。
 木津郷は早くも藤原宮木簡に木ツ里として出てくるし、平城宮木簡・長岡京木簡にも登場する。郷里制下のものには木津郷少海里・木津里・中海里がある。「若狭国税所今富名領主代々次第」(『群書類従』四)の一色左京大夫詮範条には、明徳四年(一三九三)五月の箇所に「木津庄高浜」の名がみえることから、旧高浜村は中世には木津荘に含まれていたことがわかり、木津郷(里)も同地、すなわち子生川下流域にあてられている。郷里制下の里の地については、中海は高浜町中津海(現在の中寄)に比定できる。したがって子生川下流域から、さらに西の沿岸部にまで広がっていたとみられよう。
 さて、右にみた『和名抄』には載せないが、木簡によってその存在が知られるようになった郷(里)がある。それは藤原宮木簡にみえる小丹生評岡田里・三家里と平城京木簡の遠敷郡車持郷の三つである。
 このうち岡田里の比定地を現存地名に求めると、先の佐分郷岡田里の箇所でみたように大飯町岡田がある。もしここが岡田里の地であったとすれば、藤原京の時代には一つの独立した里であったのが、のちには佐分郷のなかに包摂され、郷里制下ではその下部機構である里になったことになるが、この比定に確証はない。
 次に三家里については、上中町三宅に比定できよう。ここはかつてヤマト政権のミヤケ(屯倉)が置かれ、若狭の塩の収取をめざしたとみられている。これもそれ以後史料にみえなくなり、いずれかの郷(里)に含まれてしまったらしい。位置的に近く、三家里を包摂した可能性のある郷(里)を求めると安賀郷があるが、これも奈良時代には存在を確認できない郷である。もちろん確認できないからといって、なかったと断定できるわけではないが、三家里が奈良時代にどうなっていたかは不明といわざるをえない。
 最後に、車持郷は高浜町上車持・下車持付近に比定できるであろう。しかしこの郷は『和名抄』の編纂された十世紀にはなくなっており、右の二里と同じくいずれかの郷内に取り込まれたとみられる。それは車持郷の東にあった大飯郷、あるいは西に位置する木津郷のいずれかであろうが、現在のところそれを決定するてがかりはない。



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