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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      三方郡の郷(里)
 三方郡についても同様に『和名抄』(高本)をみると、能登・弥美・三方の三郷があり、一方『和名抄』(急本)にはそのほか余戸・駅家郷がある。

表18 三方郡郷(里)名

表18 三方郡郷(里)名
 このうち能登郷は平城宮木簡に多くみえるし、三方郡三方町田名遺跡出土木簡にもみえる。ただしその表記には乃止もあり、これのほうが能登より古い書き方とみられよう。その位置は三方町能登野付近にあたろう。
 弥美郷は藤原宮木簡に、耳五十戸・耳里・美々里として登場する。平城宮木簡にも耳里のように、藤原宮時代以来の表記がみられるとともに、『和名抄』と同じ弥美郷という文字も使われている。当然のことながら、一文字の「耳」表記のほうが、二文字の「弥美」よりも古い書き方である。また郷里制下のものには弥美(耳)郷中村里がある。耳(弥美)の名を伝えるものに美浜町を流れる耳川がある。式内社の弥美神社は同町宮代に鎮座する。したがって耳(弥美)郷は耳川流域に比定されるであろう。しかし中村里の地は不明である。
 三方郷は平城宮木簡に同じ表記でみえる。その比定地は三方郡三方町三方付近に求められるであろう。式内社の御方神社も三方に鎮座する(ただし、これはもとは大字鳥浜小字「郡神」にあったともいわれている)。
 次に『和名抄』(急本)にのみみえる二郷に移ると、余戸郷(里)の名は藤原宮木簡に出てくるが、その位置はわからない。一方、駅家郷は木簡にはみえないが、『延喜式』兵部省・『和名抄』(高本)にみえる弥美駅に関係した郷であろう。したがって弥美駅の周辺にあったといえる。弥美駅の所在は美浜町河原市付近に考えられることからすると、駅家郷は耳川下流域になろう。ただしこれをあとでみる葦田駅に関連させて考えることも一案であろう(第三節)。
 さらに『和名抄』にはないが、木簡によってその存在が知られる里をみよう。それは竹田(部)里である。すでに藤原宮木簡には竹田部里の名でみえるが、平城宮・京木簡でも竹田部里という里名がある一方、竹田里とするものもある。さらに郷里制下のものとして、竹田郷丸部里・坂本里がある。こうみてくると、この郷(里)は古くは竹田部と書き、のちには竹田となったことがわかる。これも今までに例があったように、地名を二文字にするための措置であろう。残念ながら竹田郷(里)および丸部里・坂本里の名を伝える地名は残っておらず、その場所を明らかにすることはできない。
 もう一つは郷(里)ではないが、葦田駅がある。これは『延喜式』兵部省や『和名抄』(高本)にはない駅である。そこにみえる三方郡の駅は先にふれたように弥美駅であり、葦田駅はそれより前の段階の駅であったか、あるいは弥美駅と併存したがいつの時点かで廃止された駅であろう。それは三方町相田あるいは横渡あたりに比定できるであろうか(第三節)。



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