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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      青郷の広がり
 若狭には奈良時代には三方郡と遠敷郡の二郡があったが、遠敷郡は天長二年(八二五)七月にその西部を大飯郡として分立させた。『和名抄』(高山寺本、以下「高本」)によれば、旧遠敷郡の地には、遠敷郡に属する遠敷・丹生・玉置・安賀・野里・志麻の六郷と大飯郡に属する大飯・佐文・木津・阿遠の四郷の全部で一〇郷あったという。しかるに『和名抄』(大東急記念文庫本、以下「急本」)は、遠敷郡に遠敷・舟生・玉置・余戸・安賀・野里・神戸・舟生・志摩・佐文・木津・阿桑の一二郷を記し、大飯郡は大飯・佐分・木津・阿桑の四郷とする。しかし舟生・阿桑はそれぞれ丹生・阿遠の誤記であり、かつ舟生は二度出てくるという二重の誤りを犯している。しかも佐文(分)・木津・阿桑(正しくは阿遠)は大飯郡に属すべきものであることは、両本を比較すれば明らかである。したがって急本でとるべきは、遠敷郡の余戸・神戸の二郷である。そこでそれを入れれば全部で一二の郷となる。
図56 若狭国郷(里)推定図

図56 若狭国郷(里)推定図
注1 地図中の郷名は『和名類聚抄』(高山寺本)による。
注2 数字は注1以外で木簡にみえるもの。        

 そのうち比較的郷(里)の範囲がわかるのが、多数の贄木簡の出土が知られる遠敷郡青郷である。青郷は大飯郡分立後は大飯郡に属することになり、『和名抄』(高本)では阿遠郷と記載されている。青郷の故地は、大飯郡高浜町に青という地名があることから、その近辺の関屋川下流域一帯にあたるとみられてきた。
 しかるに平城宮・京跡から出土した木簡によって、青郷の広がりがより具体的にわかるようになってきた。前項でふれたように、律令制下では五〇戸で一里を構成していたが、霊亀元年(七一五)から天平十二年(七四〇)ごろまでの間は里が郷とよばれ、その下に二、三の里が置かれるという郷里制が施行された。最近、その開始を霊亀三年とする説も出されているが、同じ里という名でも、それ以前と異なった意味で用いられるようになったわけである。また郷(里)のなかには、相互扶助・検察の組織として、近隣の五戸からなる五保の制があった。したがって郷里制下の里や五戸の名がわかり、その現地比定ができれば、郷の範囲が推測できるのである。そして青郷はその良い例となっている。しかも全国的にみても、これほど郷(里)内の地名が現在に伝わり、現地比定ができる例はまれである。その点で青郷は特筆すべき事例である。
写真49 高浜町青付近

写真49 高浜町青付近

 そこで青郷の範囲を復元してみよう。まず郷里制下の里には、川辺里・青里・小野里があり、五保の名としては氷曳五戸と田結五戸が知られる。このうち青はさきほどの高浜町青にあたろう。小野は現在ではこの文字の地名はないが、内浦湾を望む位置に高浜町神野・神野浦があり、このあたりに比定できよう。また氷曳もこの文字ではないが、それがヒビキと読むなら、やはり内浦湾の西岸に高浜町日引がある。それに対し川辺は高浜町内にそれに該当する地名はなく、同町に西接する京都府舞鶴市の河辺川沿いに河辺由里・河辺原・河辺中があり、その一帯に比定できると考えられる。ただし、そこは青とは山を隔てた連絡の不便な地であり、あるいは関屋川下流域にあてるべきかもしれない。さらに田結にあたるとみられるのは、同市田井である。この田井については、文永二年(一二六五)「若狭国惣田数帳案」(東寺百合文書『資料編』二)に「青郷六十町八反百廿歩 除田井浦二丁八反四歩定」とみえ、本来田井浦が青郷に所属していたことがわかる。そしてその田井浦は「丹後国志楽庄に押領せられ畢んぬ」という。ここに田井が丹後国に編入されるようになった契機があるわけである。
 このように里と五保の所在を推定すると、青郷(里)は高浜町から舞鶴市にまたがり、東は高浜町青から西は舞鶴市河辺地区まで、大浦半島の少なくとも東半部を占めることがわかってくる。その郷(里)の範囲の西半部は現在では舞鶴市に属するように、のちには丹後国に所属するに至っている。国の領域が時代により変遷したことがうかがえるわけである。そして青郷は右の地域内の入江や川沿いに点在する、いくつかの小集落から成り立っていたのである。その場合、入江に位置する小野・氷曳・田結と青との連絡には、陸上よりも船が使われたことであろう。そして一つの郷は二、三の里から成り立っているのが普通であることからすると、青郷に属する里はほぼ先の川辺・青・小野里くらいであり、二つの五戸は三つの里のいずれかに、位置と連絡の便を考えると、おそらくは小野里に属したのであろう。
 当時の郷(里)が自然に形成された一つの村落ではなく、一郷(里)五〇戸という数を合わせるため人為的に構成された村落であることを、この青郷の例はよく物語っているといえよう。一方、郷里制下の里の名が、地名として現在もよく残っていることがわかった。これまで郷里制の里の名が現存地名として残っている例が少ないことから、里も自然村落ではなく、郷を機械的に二ないし三に分割した法的擬制であると考えられてきた(岸俊男『日本古代籍帳の研究』)。しかし、青郷においてはこれはあてはまらない。したがって青郷の里は実際の村落をかなり反映しているとみられる。しかしこの場合でも、郷全体で五〇戸にするため、各里の郷戸数を調整するための操作が行われ、たとえば自然村落としての神野浦と、やはり自然村落の田結・氷曳を合わせて、小野里を作るというような作業が行われており、単純に里は自然村落であるということはできない。同じことは五戸(保)についてもいえ、田結五戸・氷曳五戸はそれぞれ、田結・氷曳にあった村落を五つの郷戸に編成した結果できたものである。このように行政的に組織された当時の郷・里は、ある程度自然村落を反映しながらも、一郷を五〇戸に合わせるために各戸の範囲を決め、さらに郷・里の範囲を調整する、編戸という人為的作業をふまえて作られたものであったのである。



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