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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    一 律令制地方支配の成立
      古代の国郡の推移
 律令制成立後の古代若越の国の推移について簡単にふれておくと、若狭については変化がないが、越前国については、まず養老二年五月に羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割いて能登国が分立した。能登国はこののち一時越中国に併合されるが、天平宝字元年(七五七)に再び独立している。
 その後、弘仁十四年(八二三)二月に、越前国から江沼・加賀二郡を割いて加賀国が置かれた。その時の越前国守の申請文から、加賀郡が国府(武生市)から遠く離れていることが最大の理由であったことが知られる。距離的に遠く離れているのみでなく、「四大川」で遮られており、交通の不便ははかりがたいものがあった。たとえば、民衆が郡司・里長の不正を国司に訴えるにも遠くて不便であるし、国司の部内巡検にも煩いが多いことが述べられている(『類聚三代格』)。
 福井県域の古代の郡の分立について述べると、加賀国の成立と同じ年の六月に、丹生郡のなかの九郷一駅を割いて今立郡が置かれたが、それは「地広く人多き」ゆえであった(『日本紀略』)。また、若狭国では、天長二年(八二五)七月に遠敷郡から分かれて大飯郡が置かれた。



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