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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    一 律令制地方支配の成立
      国府・郡家の成立とその所在地
 一般に国司が政務をとる中心の建物群を国庁とよび、国庁をとりまく一国の中心地を国府というが、若越の国府の所在郡について『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)によれば、若狭国は遠敷郡、越前国は丹生郡にあるとされている。これは十世紀のものであるが、それ以前に国府が移動したという徴証がみられないので、おそらく当初からそのようであったのであろう。越前国については催馬楽に「武生の国府」が歌われている(文三六)。催馬楽は奈良時代から平安初期に成立したと考えられるから、当初の国府の所在地を伝えているといえよう。そして若越いずれも中世に至って国府所在地は「府中」として地方支配の中心として受け継がれていく。今の小浜・武生にその名称が残るが、古代にさかのぼって具体的にどこに国府・国庁があったのか、発掘調査などによって確認されていない。小浜市府中遺跡石田地区からは、平安時代の柱穴若干と緑釉・灰釉陶器などが発見されているが(小浜市教委『府中遺跡調査概報』)、国府につながるものかどうか不明である。
写真48 武生市街地遠景

写真48 武生市街地遠景


図54 越前国国府推定図

図54 越前国国府推定図

 したがって、これまで主として歴史地理学的な方法によって国府域を推定する研究が発表されてきた。越前国府域については、武生市街地に比定する点で諸説ほぼ一致するが、論者によって若干のずれがある(図54A1〜A6)。若狭国府域については、総社のある府中集落に求める見解(図55A1・A2)、その東南地域に求める見解(図55B1〜B3)、前者から後者への移転を想定する見解、逆に後者から前者への移転を想定する見解などが出されている。
 ところで、諸国の国府域内外に白鳳期に始まる国府付属寺院が存在する例が知られている(木下良『国府』)。これにあたるものとして、若狭については、小浜市の国分寺の東方約一キロメートルの所に白鳳期の寺院跡があり、太興寺の地名がある。一方越前については、武生市街地に白鳳寺院としての深草廃寺がある点が注目される。
 郡司の政庁である郡家(郡衙)についてもその所在地が確認された郡はないが、越前国丹生郡については武生市高森遺跡が郡家所在地の可能性が高いといわれている。掘立柱建物が多数みられ、そのなかで第二次調査で検出されたものには、方位に規則性があり、柱穴もしっかりしていて、郡家の中心的な建物と推定されているものがある。周辺の範囲の確認調査からほぼ二町四方が郡家の庁域と推定されている(武生市教委『高森遺跡』一)。
 一方若狭国では、最近三方町三方のJR三方駅西側の水田で、「郡厨」「郡」「三方」などと記す墨書土器が発見されたことが注目される。付近の小字名に「館薮」「郡神」があり(図62)、後者の地には式内社三方神社の旧社地が存在したとの伝えもある。この付近に三方郡家があった可能性が大きいといえよう。
図55 若狭国国府推定図

図55 若狭国国府推定図

 国庁や郡家はいわば新しい文明の地方への波及の象徴でもあった。先に指摘した国府付属寺院や国分寺も、中央の最新の土木・建築技術が動員されてできたものである。平城京では、瓦葺建物は帝王の居所を荘厳ならしめる装置としてその建造を奨励されていたが(『続日本紀』神亀元年十一月甲子条)、このような認識は仏教を地方支配の要に据える天武朝の政策と相まって、すでに白鳳期に地方へも移植されたことは想像に難くない。先に述べたように、地方豪族のうち評の官人などとしていち早く新しい国家の支配理念を受け入れた者たちが、中央から下ってきた国宰(国司)と協力して、在来の地域的信仰にかわる仏教を積極的に受容し、評家の成立と前後して大規模な伽藍を最初に造営したことと思われる。一国の中心となる評に建造された伽藍は、国宰による地域支配の精神的支柱となり、地域の人たちの目には新たな文明世界の象徴として映じたのではなかろうか。



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