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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    一 律令制地方支配の成立
      木簡からみた律令地方行政制度の確立過程
 『日本書紀』のような編纂史料は、編集時の知識で地方制度などについて記述することが多いので、その制度の成立や変化の過程を正確に知るには不十分である。そこで、編纂という形で加工されていない生の史料が重視されるわけであり、最初に述べた須恵器の銘文もまさにそのような貴重な史料である。このほか第一次史料の代表的なものに木簡がある。とりわけ、地方から貢納される租税に付けられた荷札は、書かれた時点での地方行政組織を正確に反映していると考えられる。租税の内容については第二節で述べられるが、ここでは地方行政のあり方の変化を木簡を通して説明してみよう。
 先に述べた「評」の制度は、大宝令の施行を期に「郡」の制度に移行した。この移行の時期をめぐってかつて論争が戦わされたが、決め手になったのは藤原宮跡から出土した木簡であった。若狭国の木簡からこの点を追認しておこう。年紀の明記されている評の木簡の必要部分を挙げると次のようになる。
 a丁酉年(文武天皇元年、六九七) 若狭国小丹生評岡田里(木一)
 b戊戌年(文武天皇二年)       若侠国小丹生評□□里(木三)
 c庚子年(文武天皇四年)      若佐国小丹生評木ツ里(写真47)
 このように飛鳥浄御原令制のもとで、大宝令施行直前に至るまで「評」の文字が用いられていたことが明らかである。
 ところで、浄御原令制下の木簡で、年紀は不明であるが次のものが注意される。
 d□□評〔三方〕耳五十戸(木一〇)
 e三方評耳里  (木一一)
写真47 木簡(木7)

写真47 木簡(木7)
 これらはいずれも「ミミノサト」を記したものである。サトを「里」と書く一般的な表記のほかに「五十戸」と書く用法もあったことは、『万葉集』ですでに知られているとおりである(五―八九二)。これはいうまでもなく、律令制の里が五〇戸で構成されることによるが、他の木簡や法隆寺に伝わった幡の銘文などをみると「五十戸」と記す例は比較的古いものに多い。つまり表記のうえからいえば、「五十戸」→「里」というおおまかな傾向を指摘できそうであるが、それが民衆を戸に編成するしかたの変化などに対応するのか、単なる記載法の違いに過ぎないのか今後検討を要する問題である。
 大宝令施行後の比較的早い時期の木簡としては、次の平城宮跡出土のものがある。
 f和銅四年(七一一)若狭国遠敷郡遠敷里(木補一)
 g和銅五年     若□国小丹生郡野里(木二一)
 h和銅六年     若狭国遠敷郡玉杵里(木二二)
 i養老二年(七一八)若狭国遠敷郡玉置郷田井里(木補二)
 まずこれらからわかるように、最初「小丹生」「遠敷」と両方使われていた郡名が、和銅六年以降は「遠敷」に統一される。これは『続日本紀』和銅六年五月甲子条に「畿内・七道諸国の郡・郷の名は好き字をつけしむ」とあることに対応すると考えられている(この記事の「郷」は正しくは「里」であって、「郷」はのちの知識による修飾である)。ここに行政制度だけではなく、地名そのものまで画一的に統制しようとする律令国家の意志を知ることができるのである。ただし、fの木簡にみるように、のちに定着する二字の記載法自体は「好き字」の地名に統一される以前から存在した場合があった。
 そのような目でみれば、国名も浄御原令制下のa〜cで、「若狭」のほかに「若侠」「若佐」がみえ、表記は早い時期では一定していなかったことがうかがえる。なお、国段階の表記の統一は、郡・里名より早く和銅六年以前に完了していた可能性が指摘されている(野村忠夫「律令行政地名の確立過程」『古代史論叢』中)。
 次に、hからiにかけて、郡―里の行政組織が郡―郷―里の行政組織に変わっていることがわかる。これは従来、霊亀元年(七一五)に改められたと考えられてきたが、霊亀三年に改められたとすべきであるという意見も出されている(鎌田元一「郷里制の施行と霊亀元年式」『古代の日本と東アジア』)。なお、郡―郷―里の行政組織は、サトを二段階にして地方政治の統制強化をめざしたものであったが、それは天平十一(七三九)〜十二年に廃止され、郡―郷の行政組織に変化することが指摘されている(岸俊男『日本古代籍帳の研究』)。ただし、郷里制廃止以後でも、郷名を○○里と記す例が散見される(木三二など)。



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