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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    一 律令制地方支配の成立
      評制支配と民衆
 『常陸国風土記』行方郡条には、次のような伝説がある。まず、継体天皇の時の話として、箭括氏麻多智が谷間の田を開墾したが、夜刀の神(蛇神)が妨害した。この神から逃げる時、それを見たものは一族滅亡するという恐ろしい神である。ところが、麻多智は鎧を付け、自ら仗を取って、この神を打ち殺し、追い払った。ここに在地の呪術的信仰を克服する第一歩がしるされている。しかし一方で、麻多智は山の登り口に印の杖を立て、これより上を神の地とし、自らは「祝」となって神を祭ったという。
 その後、今度は孝徳天皇の時、壬生連麿という者がこの地に池を造成した。彼は国造であり、カバネからみても麻多智より地位が上のこの地の第一級の豪族であった。彼の工事の時も夜刀の神が現われたが、「この池を築くのは民を生かすためである。どんな神であれ天皇の教化に従わないものはあろうか」と言い、役民に打ち殺すことを命じ、蛇は姿を隠したという。
 もちろん、これらの話はそのまま歴史的事実とは考えにくいが、さまざまな人が論じているように、継体朝にかけられている箭括氏麻多智の開墾と比べて、孝徳朝にかけられている壬生連麿の開発には大きな違いがある。孝徳朝の話の主人公壬生連麿は、風土記の別の箇所で「茨城国造」と記されており、行方評を設置するように申請した一人であり、おそらく新しくできたこの評の官人になったのであろう。その彼が、儒教的な「風化」(天皇による教化)の論理で、在地の呪術的信仰を象徴する夜刀の神を圧伏すべく、「人夫」に命令を下している。ここには「天皇(大王)」の名のもとでの一種の「文明化」が、評制による領域的な支配と地域の人民に対する強制的労働の前提となっていることに注意しておきたい。また夜刀の神に対する態度についても、麻多智の場合はそれを打ち殺しながらも、一方で「神」と「人」との共存を図り、神を祠る祝となっているが、壬生連麿の開発行為にはそのようなことが行われた形跡はまったくみえないことも大きな違いである。土地の人たちの迷信を含む信仰を全面的に否定することが当時の中央政府の政策としてあったことは、愚俗廃止を命じた詔(『日本書紀』大化二年三月甲申条)にも現われている。そこに記されているように、民間の「愚俗」が強制徴発の「役民」の往来に支障をきたすというような認識が基礎にあるのである。
 さて、先の風土記の話とよく似た話が、『日本書紀』推古天皇二十六年(六一八)是歳条にある。河辺臣某が安芸の国に遣わされて、大型船に必要な材木を捜しに山へ入った。よい木があったのだが、人が「霹靂(雷神)の木である。切ってはいけない」と言う。しかし、河辺臣は「雷神といえども、どうして皇命に逆らえようか」と言い、人夫に木を切らせた。はたして大雨になり、稲妻が走ったが、彼は剣を手に持ち「雷神よ、人夫を犯してはならない。わが身を傷れ」と言って空を仰いで待った。稲妻が走ったが彼を犯すことができず、神は小さな魚になって焼かれて食べられたという。
 ここでの主人公は、中央から派遣されてきた人物であり、先のような在地の豪族ではない。彼は確証はないものの、時々の必要から臨時に派遣される「国宰」(クニノミコトモチ、のちの国司の前身)であった可能性がある。ちなみに『播磨国風土記』には、国宰が山に入って船を作ったという話がある(讃容郡)。
 くり返し述べるが、以上の説話から、当時の中央政府の支配にとって地域民衆の信じる独自の信仰が邪魔になったことが知られる。すなわち、地域の民衆を氏や部ごとの縦割りではなく、何らかの形で横断的に編成して徴発するうえで、迷信的な土俗信仰の克服が非常に重要な課題であったことが反映されているのである。そして、その「文明化」の中心に中国の先進的な儒教イデオロギーで武装した王権が据えられたのであり、その地方への命の伝達者が「クニノミコトモチ」=国宰であり、それに対応して地域の豪族がその文明化の担い手として編成されたのが「評」の制度であった。なお、この地域の中央政府との直接的接触の端緒には、日本海の対岸との交流があり、地域への王権の直接的支配が対「蝦夷」政策を契機に急速に展開すること、それが民衆に対する力役の賦課が直接地域に及んでくる過程と対応していることを再確認しておこう。



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