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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    一 律令制地方支配の成立
      評制の施行と支配方式の転換
 隣の石川県小松市南方に広がる丘陵地帯にある、那谷金比羅山で見つかった須恵器を焼く窯跡から、昭和五十九年に注目すべき文字をヘラ書きした土器が出土した。惜しいことに前半の下半分は欠けているが、第一行目の三字目は明らかに「評」と読めることがまず注意される(写真46)。「評」は律令制の「郡」に先行する地方行政単位で、孝徳朝に設置され、のちに述べるように大宝令の施行を境に郡の制度に移行した。
写真46 須恵器銘文(銘1)

写真46 須恵器銘文(銘1)

 窯跡の所在地は律令制の行政区画では江沼郡内にあるが、第一行目の「与野評」は江沼郡の前身である。「与」は万葉仮名でヨ乙類、「野」はふつう「ノ」と読むが、「ヌ」と読む場合もある。ここで思い起こされるのは、『釈日本紀』に引く『上宮記』に「一に云わく」としてみえる継体天皇の母方の祖母を「余奴臣」の祖とする点である(第二章第二節)。『上宮記』には推古朝遺文のような古い表記法がみられることが指摘されているが、「余」=ヨ乙類、「奴」=ヌで、「余奴」=「与野」=ヨヌである。そして、『万葉集』では古代の中部方言として、たとえば「コエテ」を「コヨテ」と記すように(二〇―四四〇三)、オ列乙類とエ列乙類の区別が明瞭さを欠いていたという。したがって、「エヌ」を「ヨヌ」と記すことは十分にありうるのであり、もしこれが方言にもとづくとすれば、この銘文を書いた人がこの地と関係の深い人であった可能性が高い。
 それでは、このような「評」の制度がしかれて何がどのように変わったのであろうか。銘文からはこのようなことはわからないので、文献史料から一般的な状況を述べておこう。 七世紀以前には、氏や部ごとの縦割り的な民衆の徴発が行われていた。しかし一方では、それとは原理を異にすると思われる形が現われてきた。第二章第四節でも述べられているが、『日本書紀』皇極天皇元年(六四二)九月乙卯条によれば、皇極天皇が大臣に詔して大寺(百済大寺=大安寺の前身)を造るため「近江と越の丁」を徴発するように命じている。ここにみえる「近江」「越」の表記に後世の潤色がないとはいえないが、少なくとも越の国が分割される持統朝以前のあり方を示している。もちろん、ここからただちにのちの律令制下の国単位の徴発のようなものを考えることはできないにしても、地域を指定しての徴発である点、前代の氏や部民単位の徴発と異質であることが重要である。
 このような領域を横断しての徴発が全国的に拡大していくことになる。『日本書紀』斉明天皇五年(六五九)是歳条には、出雲国造に「神の宮(杵築大社)」を修造させたが、狐が「於友郡役丁」のとった葛の末をくいきって去ったという奇妙な記事がある(『日本書紀』では「評」を「郡」と書き換えている)。朝廷の命令によって、於友(意宇)の評という領域を単位とした大規模な役民の徴発が実際に行われていたのである。おそらく、「与野評」のような北陸地域に設置された評でも同様であったであろう。それではこのような評制の支配が地域に及んだことは、当地の人びととのあいだにどのような関係を生じたのであろうか。残念ながらこの点も他地域の史料から考えざるをえないが、そのありさまを述べてみよう。



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