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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第三節 若越の神々とケヒ神
    三 気比神
      神格の上昇と地域諸神の変化
 ケヒ神が、国家から特別の尊信をうけるようになってから、この神の地位は急速に上昇していった。
 とくに目立つ画期は、わが国における初の神階として従三位を授与された天平三年(七三一)、次いで、大使と副使間に紛争が生じたもののその発遣が最後となった承和年間の遣唐使が帰着したあと従二位の神階に昇叙された承和六年(八三九)で、以後この神の地位は急速に上昇した(『敦賀市史』通史編上)。ともに、藤原氏が中央政界を主導していた時期であったことも見過ごせないが、東アジアの国際関係の変化にともなって高まった日本海域の緊張のもとにおいてであった。
写真45 「気比宮古図」

写真45 「気比宮古図」

 ケヒ神の地位の上昇は、地域の神祇信仰にも否応ない変化、つまり敦賀湾沿岸の要地やケヒ社周辺にあった諸社の祭神の天つ神系神々への転化をもたらしたことは、すでに述べた。それがさらに九世紀の半ば前までには、気比社七座と天利劔神・天比女若御子神・(天)伊佐奈彦神は気比大神の「御子神」(編四一一)とされるに至っていたのである。そして、気比大神は寛平五年(八九三)までに正一位勲一等と、畿外の神では最高位にまで昇りつめた(編四五一)。
 この気比大神を核とする親子神の形態は、気比神宮寺にも及んだ。気比神宮寺は、八世紀前半の天平三年当時に大納言兼大宰帥であった藤原武智麻呂が建立したというが(『藤原武智麻呂伝』、編一一五)、すでに九世紀中葉の斉衡二年(八五五)には、間違いなくこれも「気比大神御子神宮寺」(編四四八)とされていたのであった。
 こうした「親子神」の形態が、越前にみられた地域神の畿内化の姿であった。つまり、ケヒ神自身が、元来は一地域神から発して畿外最高位の官社にまで地位が上昇し、神格も国家安穏の祈願を目的とする守護神へと転化した。と同時に、その過程でケヒ大神は周辺の諸小社を自らの「子神」として統合していったので、国家的祭祀体系は地域に扶植され定着していったわけである。



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