ケヒ神の地位の上昇は、地域の神祇信仰にも否応ない変化、つまり敦賀湾沿岸の要地やケヒ社周辺にあった諸社の祭神の天つ神系神々への転化をもたらしたことは、すでに述べた。それがさらに九世紀の半ば前までには、気比社七座と天利劔神・天比女若御子神・(天)伊佐奈彦神は気比大神の「御子神」(編四一一)とされるに至っていたのである。そして、気比大神は寛平五年(八九三)までに正一位勲一等と、畿外の神では最高位にまで昇りつめた(編四五一)。
この気比大神を核とする親子神の形態は、気比神宮寺にも及んだ。気比神宮寺は、八世紀前半の天平三年当時に大納言兼大宰帥であった藤原武智麻呂が建立したというが(『藤原武智麻呂伝』、編一一五)、すでに九世紀中葉の斉衡二年(八五五)には、間違いなくこれも「気比大神御子神宮寺」(編四四八)とされていたのであった。
こうした「親子神」の形態が、越前にみられた地域神の畿内化の姿であった。つまり、ケヒ神自身が、元来は一地域神から発して畿外最高位の官社にまで地位が上昇し、神格も国家安穏の祈願を目的とする守護神へと転化した。と同時に、その過程でケヒ大神は周辺の諸小社を自らの「子神」として統合していったので、国家的祭祀体系は地域に扶植され定着していったわけである。 |