皇子ホンダワケ(品陀和気命、誉田別王、つぎの応神天皇)は、神功皇后が新羅征討に赴いていたとき九州で生まれたが、大和へ引揚げてきたときに香坂王・忍熊王らの抗戦に遭い、ひじょうに苦戦した。そこで、この穢れの禊ぎはらいをするために、建内宿 は皇子を伴って、角鹿に至って伊奢沙和気大神に参拝し、イザサワケ大神と皇子とは名を交換した。これによって皇子は、この大神を食料を供献する御食津神と名づけたが、これをいまは気比大神とよぶ。
この説話に登場する神功皇后は、推古女帝よりあとの七世紀の女帝たちとかかわらせて、『記』『紀』の編者たちが創出した人物とされる。また、建内宿 の人物像も、「大化改新」の功臣藤原鎌足を顕彰しようとして、七世紀後葉以降に創出された架空のものとされる(岸俊男『日本古代政治史研究』)。こうしたことから始めて、応神天皇も、それ以前の崇神王統とこれ以後の仁徳王統とをつなぎ合わすために作られた架空の天皇ともされているのである。したがって、これらの諸点から右の説話をそのまま史実とみることは到底できないことである。
しかしながら、右の説話に何らかの史実の反映をみるとすれば、ヤマト朝廷の王子がみずから易名したという神に、食物の供献を意味する御食津神と名づけたという点にふれてであろう。というのは、供食・供膳は、地方首長のヤマト朝廷の大王への服属儀礼の一つであったからである。そうした類型のなかで理解すれば、元来地元に成長してきた地域首長とその配下に祀られてきたケヒ神の祭祀権であったが、それがヤマト朝廷に奉献されたのである。その時期は、出雲の現地諸神の祭祀権が奉献されたのとほぼ同様に(門脇禎二『出雲の古代史』)、七世紀の後半であったとみられる。 |