目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第三節 若越の神々とケヒ神
    三 気比神
      ケヒ神へのヤマト朝廷の関与
 ケヒ神の原名を、『記』仲哀天皇段は、イザサワケ(伊奢沙和気)神であったとする(『紀』応神紀の異説は、誉田別神を原名とするが、これには、次に述べる易名説話の関係で応神天皇の和風諡号である誉田天皇との混同があるとみられるので、採らない)。このイザサワケ神は、のちにヤマト朝廷ではケヒ(笥飯)神とよばれることになるが、その段階になって、この神への直接のかかわりをもつ記事が出現するようになるのは、六九二年以来のことである。
 すなわち、越前国司が、角鹿郡の浜で白蛾(あるいは白い鵝鳥の誤りか)をとり、これを祥瑞として献上したために、朝廷は「笥飯神」に封戸二〇戸を加増したというのがそれである(編八八・八九)。増封したというから、それに先立って笥飯神には若干の封戸が与えられていたのであろうが、封戸制の成立は七世紀後葉とされているので、その時期以後であろう。これに続いて、気比神へ宝亀元年(七七〇)七月に奉幣され、同七年九月には気比神宮司(従八位官に準ず)が設置された。
 したがって、逆にいえば、少なくとも七世紀中葉以前の笥飯(気比)神は、ヤマト朝廷にとって、さほど重大な地位を占めていたとはみられない。そして、これより以前の、ワケ(別)称を付与されたころのイザサワケ神あるいはより以前のケヒ神の原像は、かならずしも明らかではない。しかし、この神が存在したケヒ浦に隣接する港(角鹿津)との一体性、のちのちまで海上交通の守護神ともされた性格、これらから本来は海神(それも渡来系の)であったとみる可能性は残る。それにしても、少なくとも、ヤマト朝廷に笥飯神とされたころには、ケヒ浦の地主神であり食物の神とみられる神格となっており、とくに後者が朝廷の庇護のもとにいっそう増幅されていったもの、とみることができる。



目次へ  前ページへ  次ページへ