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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    三 遺跡の語る日本海文化
      墳丘墓・古墳をめぐって
 北陸道域の門戸に位置する越前・若狭の地域が、すでに弥生時代から古墳時代を通して当時の政治・文化の中心であった畿内と交流の浅くなかったことは、次のことからもうかがえる。すなわち、弥生時代においては、畿内を中心に発達した櫛描文様をもつ弥生土器が当地にも波及し流行することや、畿内で造られた銅鐸が当地でも発見されていることなどである。また、古墳時代においては、畿内の首長を盟主として各地域の首長が連合し、創出した前方後円(方)墳が当地にも一〇九基も築造されていること、盟主が各地の連合下の首長に配布した三角縁神獣鏡をはじめとする各種の鏡が四一面も発見されていることなどである。
 しかし、ここでは畿内以外、とくに日本海域との交流のあとを、遺跡・遺物を中心としてみてみたい。いうまでもなく、当地と日本海域との交流は舟運によっている。それは、井ノ向一号銅鐸(春江町、弥生時代前期末〜中期初)に二〇数本の櫂とともに描かれた帆掛け船(準構造船、図11・52)のような船によったことはいうまでもない。
図52 銅鐸に描かれた船

図52 銅鐸に描かれた船

図52 注口土器と鼓形器台

図53 注口土器と鼓形器台

 以下、四隅突出型墳丘墓・舟形石棺・横穴式石室・特殊な遺物の順に記そう。ただし、その前提として、たとえば、土器をめぐってだけ次のことを指摘しておきたい。すなわち、弥生時代後期から古墳時代の初めにかけて出雲を中心に、注口土器や鼓形器台が分布する。注口土器は、複合口縁をもつ壷の肩部に注口の付く土器(図53の上)であり、出雲以東では、古殿遺跡(京都府峰山町)・持明寺遺跡(鯖江市)・千代遺跡(石川県小松市)・西新保遺跡(金沢市)などで発見されている。また、鼓形器台は、その名称のとおり鼓の形をした土器を載せる台(図53の下)であり、小谷ケ洞二号墳(敦賀市)・上莇生田遺跡(福井市)・坂ノ下遺跡(大野市)・漆町遺跡(石川県小松市)などで発見されている。これらは、人の移動を示すものである。一方、このころ、越前・加賀を中心に発達した装飾器台が、北は加賀・能登・越中・越後・佐渡にまで波及し、西は丹後・伯耆・筑紫にまで波及している(図17)。当地の人も東に西に移動したのである。



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