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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    三 遺跡の語る日本海文化
      鳥浜貝塚
 鳥浜貝塚(三方町)は縄文人のタイムカプセルとよばれ、わが国の代表的な縄文遺跡として小学校六年生の教科書にも紹介されている。昭和三十七年以来四半世紀におよぶ発掘調査が実施されて、従来の縄文人に対するイメージが完全に覆されたといわれる。それは何よりも、これまで誰も見ることのなかった珍しい遺物が大量に得られたからだと思う。鳥浜貝塚を特色づけるものは、本来腐敗して残存することのないはずの草木類・種子類などの植物性遺物を中心とする有機性遺物が二五万点以上という膨大な量で出土していることにある。大自然が偶然形成した保存庫ともいうべき低湿地遺跡が、わたくしたちに語るものは多い。加えてこれらの資料から、彼らの生活ぶりが復原可能となりつつあることも確かなことである。つまり、縄文人の多彩な生業を知ることが可能となった。それに、わが国におけるルーツ(事始め)を調べる場合、多くは鳥浜貝塚の出土品が有力な参考になる(第一章第一節)。
 鳥浜貝塚は日本海文化という視点からみると、きわめて興味深い事実が次々に溢れてくる。日本海に根ざして鳥浜貝塚の縄文人が生活をしていたことを如実に物語るものは、昭和五十三年の調査におけるココヤシの出土である(写真39)。五五〇〇年前、黒潮にのり、対馬暖流によってもたらされたこのヤシの実は、島崎藤村の詩の世界の縄文版ともいわれ、柳田国男の「海上の道」をこれまた縄文時代までおしあげた。十九世紀初めの小野蘭山の労作『本草綱目啓蒙』にも「実は四辺の海浜に漂着し来たる、故に四国、但州、奥州、若州の地にままあり」と記されており、文献に記載されている若狭地方へのヤシの実の漂着が、実際はずっと古くさかのぼることとなった。
写真39 鳥浜貝塚出土のヤシの実

写真39 鳥浜貝塚出土のヤシの実

 ココヤシの実の構造は外側に外果皮とよぶ皮、そして中果皮とよぶ厚い繊維の皮、その中に核とよぶ堅い内果皮で構成されている。出土したのは、内果皮の部分の破片で、合計四個体分の出土がみられた。対馬暖流は、黒潮が九州南部で枝分かれし、九州の西岸を北上して、対馬海峡を通って日本海に入り、津軽半島沖まで北上する。津軽半島に達した主流は津軽海峡から太平洋に出て、三陸海岸を南下する。また一部の支流は北海道の西を北上し、宗谷海峡付近で衰退するといわれる。フィリピンの東海岸沖の熱帯海域に源を発するこの黒潮は、「さまざまな物をベルトコンベアーのごとく日本列島へと運び続けている」(中西弘樹「対馬海流と漂着物」『季刊考古学』一五)といい、対馬暖流が北上する日本海沿岸には熱帯起源の漂着物だけではなく、中国大陸や朝鮮半島からの漂着物も多く存在するという。
 石鏃・石匙・削器などの剥片石器の石材についても、地元産のチャートも利用されているが、大量のサヌカイトや輝石安山岩、少量の黒曜石が遠隔地から運ばれていることはすでに述べられている(第一章第一節)。日本海を媒介にして鳥浜貝塚にもたらされた石材では、能登産といわれる輝石安山岩と隠岐島産の黒曜石が注目されよう。いわば日本海の荒波を乗り越え丸木舟を漕ぎ出して、人間本来の冒険心あるいは未知なるものへの憧れというか、遠くはなれた縄文人同士の交流が盛んであったことを物語る。
 最近は、各地の縄文遺跡で栽培植物の出土が報告されているので、農耕の存在については肯定的な意見も出されているが、この問題に対して実証的な資料で迫ったのは、鳥浜貝塚の八種類の栽培植物の種子と一種類の果皮の検出がその最初である。これらの研究は、鳥浜貝塚の各層序の土の水洗選別と、走査電子顕微鏡による細胞段階の地道な分析および同定の成果なのである(笠原安夫「栽培植物の伝播」『季刊考古学』一五)。
 鳥浜貝塚の栽培植物は、きわめて多彩であり、北方系のゴボウ・アサ・アブラナ類(カラシナ・カブ・ナタネ・ツケナ)と、南方系のヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属と、まさに縄文野菜のそろいぶみの感がある。
写真40 鳥浜貝塚出土のヒョウタン果皮

写真40 鳥浜貝塚出土のヒョウタン果皮

 ゴボウはヨーロッパからシベリア・中国東北部に野生し、日本に渡来したのち野菜として成立した。中国では乾燥した果実を薬用として利用したようで、わが国に入ってきて本格的に食用に供されたという。ここできわめて興味深いのは、「越前白茎」という茎葉を食用とするアザミ葉のゴボウの存在である。これこそシベリア方面から渡来した野生のゴボウが、福井県で越前白茎として野菜化したとされる。近年は、山田早生ゴボウや柳川ゴボウなど根を食べるゴボウが多く栽培されているという(青葉高『野菜』)。越前白茎というゴボウはこれが実に縄文時代前期までさかのぼることが明らかになり、それも北方からの伝播が確実に証明されたことは意義深いことといえよう。ゴボウと同様アサも「シベリアからの渡来人の随伴植物」(笠原前掲論文)とされ、アサについては、鳥浜貝塚の細い糸や編物にアサが利用されていることも判明している(布目順郎『目で見る繊維の考古学』)。アブラナ類も野菜としては重要な位置にあったようだ。
 ヒョウタンはアフリカ原産であり、曾畑貝塚(熊本県宇土市)で、縄文時代前期に位置する完全な一個体分が茎の痕跡を有して出土している。これまで鳥浜貝塚で想像していた器形と同様、エボシ形のくびれのない形が縄文時代の器形である。リョクトウは現在インドや東南アジアで栽培している豆類で、モヤシや緑豆春雨として現在も馴染みが深い。エゴマ・シソは東インドやマレーが原産地で朝鮮半島から渡来した(笠原前掲論文)。
 さらに、大陸文化との交流でふれておかなければならないのは、漆の問題である。鳥浜貝塚の漆が土器や木製容器類に鮮やかな文様を描いた逸品であることは、すでに紹介した(第一章第一節)。漆は高度な漆工技術が存在しなければ、このような優品が製作されることは不可能であり、今のところ縄文時代前期の鳥浜貝塚の漆工は、縄文人固有のものか大陸からの伝播なのかは不明といわざるをえない。最近の発掘例では、南太閤山T遺跡(富山県小杉町)で、縄文時代前期に属するヒョウタン果皮の出土が報告され、果皮には赤い漆が塗られていると報告されている(富山県教委『南太閤山・高岡線内遺跡群』)。
 これらの事実が物語る日本海を舞台とした一大ドラマは、日本海を鳥浜の地をめざして北からあるいは南から航海してきた縄文人、あるいは大陸からはるばる危険をおかして渡来してきた人たちの存在を如実にあらわしている。



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