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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    一 日本海文化
      日本海文化論の発展
 歴史学やその関係諸学が発展した近代の、とくに資本主義が発展した明治期以降においては、若越を含む日本海域は、「裏日本」とみられてきた。そのような見解に対して、古代日本においては、日本海域がむしろ「表日本」ではなかったかという主張が出されていた。早くはその語を逆説的に書名とした久米邦武『裏日本』(一九一五年刊 公民同盟出版部)があり、とくに昭和初期の一九二〇年代後半に入ると、日置謙編『石川県史』一〜五(一九二七〜三三年刊)などにその主張が散見し始めた。
 しかし、そのような主張が本格的かつ系統的に検討され始めたのは、やはり一九六〇年代後半、つまり昭和四十年代からとすべきであろう。すなわち、金沢大学は、昭和四十二年に日本海域研究所を付置し、その機関誌を発刊した。また、昭和五十七年から始められた富山市主催の「日本海文化を考えるシンポジウム」は、その後の日本海域の自治体が相次いで開催するのと同種のシンポジウムの呼び水となった(富山市主催のシンポジウムについての、これまでの成果は、森浩一編『古代日本海文化』・『古代の日本海諸地域』・『東アジアと日本海文化』・『味噌・醤油・酒の来た道』・『古代日本海域の謎』一・二、その後の諸自治体の行ったシンポジウムの成果について主なものは、環日本海(東海)金沢国際シンポジウムについての森浩一・門脇禎二他『古代日本海文化の源流と発達』、新潟県青海町主催シンポジウムについての森浩一編『古代翡翠道の謎』、環日本海松江国際交流会議編『日韓交流五千年の歴史と文化』、福井県丸岡町主催シンポジウムについての越のまほろば物語編纂委員会編『継体大王の謎に挑む』など)。そして、これらに前後して、日本海文化や日本海域史に関する論著がしだいに多くなりつつある、というのが現状といえる(高瀬重雄『日本海文化の形成』、浅香年木『古代地域史の研究』、門脇禎二『日本海域の古代史』など)。若越の古代史についても、それら日本海文化論の視角と成果を視野にいれて検討すべきことは、いまや不可避の時期にたち至っているといえるであろう。
 この際、福井県域には平野の文化や山の文化もあるので、過度に海の文化の視角を投げかけることは妥当ではない、という意見があることも十分に承知している。しかしながら、逆にいえば、長大な海岸線をもって日本海に接する福井県の歴史や文化を考察するのに、その考察結果の限界によく配慮するならば、日本海文化論からする考察はおおいに有効であろう。さらにいえば、それこそ原始時代から海浜に平野に山地にと住み分けて発達してきた漁村・農村・山村がそれぞれ相対的に独自の社会的役割を果たすようになってくるのは、都市の発達をみた中世、とくに室町時代より以降のことである。日本海文化は、平野や山の文化よりはるかに以前から強い影響を、若越における文化の形成と発展に与えたといえる。
 それでは、日本海文化の特色はなにか、現在のところどのようにいえるであろうか。



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