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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    一 日本海文化
      日本海文化の特色
 第一には、「北の海つ道」つまり対馬海流によって、早くから海外の人や物が渡来したことがあげられる。日本海の主な潮流は図48のとおりである。
図48 日本海の潮流と潟湖

図48 日本海の潮流と潟湖

 若越を含めて日本海域には、南方からも北方からもいろいろなものが流れついてきた。そのため、考古学的には新発見が相次ぎ、重要な指摘がされてきている。たとえば、越中にみられる縄文時代の状耳飾は中国江南地方と同類のものとされ、また弥生時代の日本海域に出土する土笛もヤシの実が原型といわれている。文献史料においても、神話からして、たとえばスサノオノミコトが高天原を追放されて下ったのは、簸川上流だと『紀』の本文には書かれているが、本文とは別の一書には新羅の国に降りたとある。このように、日本海域は、ヤマト朝廷の貴族や中央の人びとにとっては、早くは外国と深くかかわりのあるところと意識されたことさえある。あるいは、時代が下っても、平安初期の漢詩集などにみられる酬唱文学(詩のやりとり)があるが、この原型は日本海岸に発した(二項、第七章第一節)。日本海岸には最初、高句麗使が来るが、その次に相次いで来たのが渤海使でこれとの間に発達したのである。そして、そののちにおいてもコシは、元来は越前国に含まれた能登国が「高麗へ渡るばかり程の遠さにやあらむ島もある」(『今昔物語集』三一―二一)とされているように、海外と同じような遠い異域とみられていたのであった。
 なお、日本海文化といっても、越中より北の海域の歴史や文化は、少し視角を変えて考える必要がある。つまり、西方からの影響を主にしてはその特質を説明することは困難だか らで、これには、急速に解明されてきた沿海州やサハリンの北方系文化との関係が重視さ
 れなければならないからである。しかし、それは当面の主題の範囲を越えるので、ここでは割愛せざるをえない。
 さらに、日本海域における列島の東西間にわたる文化交流についても、配慮しておかね
ばならない。
 たとえば、稲作の伝播の仕方にしても、北九州から青森県の津軽半島へ直接に及んだとされることには、日本海流による伝播ルートが、現在ではもはや無視できなくなっている。西方からの影響だけではない。たとえば、日本海域の東部に早くから発達した玉作は、弥生期の越前においては、それをうけ独自に発達し、さらに次の時代には他地域へも影響を与えた(三項)。また、出雲の美保神社は、いまは事代主神を祀っているが、近世初期までは、祭神はミホススミ神であった。ところが、能登半島の先端の珠洲神社文書からみると、この祭神も元来はミホススミ神で両方とも同神である(ミホは美称、ススミは『記』神代巻、『紀』天智天皇三年是歳条の古訓からいってノロシの意味だと思う)。このミホススミ神は大己貴神つまり大国主命がそのもとへ妻問いしたヌナカワ姫との間に生まれたとされる。だから、ミホススミ神をなかだちとして出雲と能登の珠洲と越後の姫川が結ばれる、という関係が浮かび上がってくる。そして、姫川流域でとれる翡翠の原石は、現在、世界第一級の品質だと証明されており、この原石でつくった勾玉が、出雲大社の境内から出土しているのは先述したとおりである(第一節)。日本海文化の形成については、海外とだけでなく日本海域の地域間交流の問題を検討する必要もあるのである。
 第二には、潟湖の役割とその近辺に地域首長による政治勢力が形成された、ということがある。
 日本海域には、「北の海つ道」によって南や北から物や人が渡来し、あるいは外国と一体とも意識されていた。しかしそれだけでなく、独自の地域文化が育っている。つまり地域の人びとは、当初は外国からきたものを手本にするが、すぐに日本の材料と技術によってつくり変えていくということも目立つ。そうした創造の地域主体として、日本海域の諸地域に地域的政治勢力が形成された。
 これについては、日本海域には諸河川の河口が、季節風でさえぎられて砂州が発達し、多くの潟湖ができたことに注目しなければならない(図48)。出雲の「神門の海」がそうだし、越前の敦賀、越中の氷見なども同様である。西の出雲(島根県)から東北の出羽(秋田県)まで潟が並んでいるのは太平洋岸と異なる日本海域の大きな特色で、それらは古代の港であった。伯耆(鳥取県)の淀江なども典型で、古代の地形を復元すると、今の市街地が潟湖になり、その回りを取り囲むように古墳群が築かれている。丹後(京都府)の竹野川の河口も同様である。つまり、潟湖=港の所有者は、回りから港を見守るように古墳を造ったのであろう。これらに注目すると、地域独自の政治勢力として伸びていく主体として、潟湖とその支配勢力の存在は無視できない。それら日本海域の潟へどのように船は入っていったかというと、おそらく山当てであったであろう。北九州の香椎宮とか宗像神社の社地を占める山とか、あるいは山陰の三瓶山・大山、そして越前の三国湊へ入る際の雄島の島当てなどでも同じである。
 第三は、日本海域には、ヤマトはもとよりほかの地域とも異なる特徴をもつ独自の文化が形成された、という問題である。
 たとえば、巨木文化が、数年前から日本海域史の研究で注目されてきている。その性格については、いろいろな説があるものの、たとえば平安時代の「口遊」に「雲太・和二・京三」といわれた出雲大社の高さも、日本海域の巨木文化の伝統によって実現したのだとみると理解しやすい。古代の東北地方の柵も、原型は日本海域の柵にあったとみられるようになっている(佐藤宗諄「越の城柵」『古代日本海域の謎』一)。
 あるいは、『出雲国風土記』では、都の貴族が「国つ神」=地方神ともよんだ大汝神(大穴持神・大己貴命)を、一貫して「天の下造らしし大神」と書いてある。しかも国造りの神もいる。国引神話におけるオミヅヌ神(『記』では淤美豆奴神、『出雲国風土記』では八束水臣津野命)である。そして、『記』『紀』にみえない出雲の神々の系譜は、この両神に結びつけられている。こうして、日本海域の西部の一中心地域をなした出雲においては、「天の下造らしし大神」と「国造り神」とを対極においた独自の神話体系が創出されていたのである(門脇禎二『出雲の古代史』)。
 要は、日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。



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