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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    三 ミヤケと部民
      ミヤケの成立
 国造を通じての地方掌握は、一種の間接支配とみることができる。ヤマト朝廷が地方の人民をより直接的に把握する方法としては、ミヤケと部民があった。ヤマト朝廷の直轄地ともいうべき屯倉が越前にも若狭にも設置されたことは、現在も残る地名のミヤケから、ほぼ確実であろう。
 若狭には上中町に「三宅」という地名がある。その位置は北川が鳥羽川と合流してかなりの沖積平野を形成する付近で、若狭街道と今津道との分岐点に近い交通の要衝でもある。側近の膳臣を若狭国造として送りこんだヤマト朝廷が、ここに直轄地を設けたのもうなずける要地である。

表12 木簡にみえる若狭のミヤケ

表12 木簡にみえる若狭のミヤケ
 やや後世の史料であるが、藤原宮跡出土木簡のなかに、「丁酉年若狭國小丹生評岡田里三家人三成」(木一)の記載があり、岡田里の所在は明らかではないが、「三家人」の氏姓は明らかに屯倉に関係したものと考えられる。丁酉年は文武天皇元年(六九七)とされている。さらに「・己亥年若佐國小丹× ・三家里三家首田末□×」(木五)という木簡もあり、これによれば小丹生評(遠敷郡)に三家里があり、そこに三家首という人物がいたことが確実となる。三家首は、三家人らを従えて屯倉の経営にあたったのであろう。己亥年は文武天皇三年(六九九)にあたる。このほか平城宮・京跡出土木簡に若狭関係のものとして、三家人黒万呂・三家人宮足・三家人首百足・三宅大人・三家人石万呂・三家人衣万呂・三家人羽志などの人名を記すものがあり、それらの釈文より上中町三宅のほか、大飯町佐分利川流域付近や三方町能登野などにも屯倉の存在が推測される(表12)。いずれも七、八世紀の史料ではあるが、屯倉の設置は六世紀にさかのぼるものであろう。この若狭のミヤケは、とくに塩の収納を主目的にしていたこと、宮廷官人膳氏と現地住民との関係をおさえた経営形態などが解明され(狩野久『日本古代の国家と都城』)、それまでヤマト朝廷の稲穀収納形態を基調においてみてきたミヤケ研究史に新生面を開く事例となった。
 越前の屯倉は、これに比しはるかに史料に乏しい。九頭竜川左岸に三宅(福井市)の地名があるくらいである。



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