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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    二 四つの国造
      高志国造
 高志国造については、これを越後に考える有力な学説のあることはすでに述べたが、い
ろいろな点で不合理なので、やはり越前国内にあったものとして議論を進めたい。
 「国造本紀」には「志賀高穴穂朝御世、阿閇臣祖屋主田心命三世孫市入命定賜国造」とあり、『紀』孝元天皇七年二月丁卯条は「兄大彦命(孝元皇子)は、是阿倍臣・膳臣・阿閇(閉)臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣・凡て七族の始祖なり」と記す。これは北陸と関係深い阿倍臣や越国造がみえる史料として、とくに有名である。しかし「国造本紀」が記すのは阿閇臣であって、阿倍氏ではない。『紀』の雄略紀には阿閇臣国見、顕宗紀には阿閇臣事代の名がみえるが、さして有力な氏族ではない。
 『新撰姓氏録』右京皇別に、阿閇臣を「大彦命男彦背立大稲輿命之後也」としているが、それに続けて、「伊賀臣、大稲輿命男彦屋主田心命之後也」「道公、大彦命孫彦屋主田心命之後也」とみえ、彦背立大稲輿命―彦屋主田心命の系統として、阿閇臣・伊賀臣・道公の三氏がみえる。先に「石黒系図」では武内宿系となっていた道公が、ここでは大彦命系として登場している。
 このようにかなり錯綜した系譜になっているが、これらの伝承の背後にいくらかでも史実を読みとろうとすれば、大彦命後裔とはいえ、阿閇氏を始祖としている伝承は、安易に無視しない方がよいように思われる。
 さて高志国造を越前国内に考えるとすれば、ほかに国造の配置をみない丹生郡を考えるのが有力であろう。丹生郡は、王山・長泉寺山古墳群(鯖江市)の存在によって、越前で最も早く開けた地域の一つと考えられるが、そののちとくに巨大な古墳の築造をみず、また数代にわたって継続した大古墳群も認められない。したがってこの地においては、在地豪族の発展よりも畿内豪族の移住が考えられる。なお和銅元年(七〇八)に初めての越前国守としてみえる高志連村君(編九九)を高志国造の後裔とする考え方もあるが、時間的隔たりが大きいので、明確な判断は困難である。したがって、丹生郡に国造を求めるとすれば、天平五年に丹生郡大領として名のみえる佐味氏(公三)の可能性が強い。佐味氏は、上毛野氏と同祖で崇神天皇皇子豊城入彦命の後裔と伝えるから、孝元天皇系の阿閇氏とはまったく系統を異にするわけである。
 一方、先の孝元紀にみえる「越国造」を、高志国造と同一視し大国造(広域国造)として扱う論考もある。これを斉明紀にみえる「越国守」「越国司」の前段階のものとして、越全体の広域国造とみなす説にも一理はある。しかし、かりに斉明紀が七世紀後半の実状を示すものとしても、それをさかのぼる時代に越全体がヤマト朝廷の支配下に広域政治圏を形成していたなどとは考えられない。おそらく六世紀段階では、ヤマト朝廷の権威は越中あたりまでしか及ばず、しかも各地の豪族を通じての間接的支配にすぎなかったであろう。このような情勢のもとで越国造が存在したとすれば、やはり越前の一部にとどまり、三国国造や角鹿国造と比肩するものでしかなかったろう。
 さらに、『紀』は「越」、『記』は「高志」というように統一された表記になっている。それゆえ「国造本紀」の高志国造と『紀』の越国造は、対応した同一の呼称であるとも考えられる。したがって、「国造本紀」の阿閇氏同祖説も、成り立つ可能性もあるのではなかろうか。その時期は、崇峻紀にいう「阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越等の諸国の境を観しむ」(編五八)とある崇峻天皇二年(五八九)以前であろう。
 要するに、若越地域の各国造の成立は、最も早い若狭国造は五世紀後半ごろからであり、これに次ぐ角鹿・高志・三国国造は六世紀になってからのことと考えられる。もとより、いったん成立してのちも一つの氏族が一貫して国造であった場合だけとは考えられず、前述の錯綜した系譜関係をみても、おそらく複数の氏族が時期を異にして国造にあたる場合もあったであろう。



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