この系図で注目すべき点は、三国国造・伊弥頭国造(射水臣祖)・利波臣・江沼臣・坂名井臣など北陸の豪族が、同系として結びつけられていることであり、あたかも北陸の諸豪族が同族連合を形成しているかのようである。「越中石黒系図」は、かなり信頼すべき古記とされてはいるが(米沢前掲書、佐伯有清『古代氏族の系譜』)、もとよりその記載がすべて真実であるとは限らない。なぜなら『記』は、前述のように利波臣を孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子孫と伝えており、孝元系とするこの伝承と相違している。また「石黒系図」に、奈良時代の著名な利波臣志留志がみられないことなどから、利波臣に二系があったと考えることも可能であろうが、やはり『記』系譜との先後関係や、相違の理由について追求していくのが本筋であろう。
第二に、「若長宿 、道公祖、志賀高穴穂朝定賜三国国造」と記載されている点が問題である。志賀高穴穂朝 (成務朝)はあまりに時代がさかのぼることになるが、この点をしばらくおくとしても、北加賀の豪族である道公が三国国造となったことがはたしてありえたのであろうか。天平三年の越前国加賀郡大領として道君の名がみえ(公二)、これから推して道君は加賀の国造であった可能性が大きい。『紀』欽明天皇三十一年(五七〇)四月乙酉条、高句麗使来着記事に、道君は「郡司」として登場する(編五三)。この郡司はもとより後世の書き換えで、本来は国造であったと思われる。道君は高句麗使を瞞着して調物を掠め取っていたにもかかわらず、処罰された形跡が認められないのが不審である。
このころ、道君の勢威が非常に大きかったか、あるいは中央と深いつながりがあって、事件の処理にあたった膳臣も手を下せなかったのであろう。当時中央で権勢を専らにしていたのは蘇我氏である。道君は蘇我氏に服従し北陸進出の尖兵となるとともに、自己の勢力も伸ばしたのではなかろうか。道君と蘇我氏との同祖関係が形作られたのも、道君が三国国造になったとの伝承が発生したのも、おそらくこの前後であったろう(浅香年木『古代地域史の研究』)。
しかし三国国造は、やはり三国氏であったと思われる。天平三年ならびに宝亀十一年(七八〇)の坂井郡大領として三国真人の名がみえる(公二、寺五八)。この時代の大勢として大領に任命されるのは、もとの国造の家系に多かった。また「三国」の氏姓が国名と一致するのも、間接的に国造であった証左といえよう。三国国造の成立は、おそらくは継体の崩後、六世紀の中ごろではなかろうか。 |