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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    二 四つの国造
      角鹿国造
 「国造本紀」は地理上の配列順とは異なり、角鹿国造を四国造の一番最後に置き、「志賀高穴穂朝御代、吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造」とある。
 角鹿国造の任命を成務朝とするこの伝承について、史実とはとれないとする説もあり、吉備臣とのかかわりがつけられている伝承も同様である(『敦賀市史』通史編上)。しかしこれらが史実でないとすれば、何故にそれが「国造本紀」に記されたかを考えなければならない。
 吉備臣と越前との関係を考えるとき、まず想起されるのは、『紀』景行天皇四十年是歳条
の日本武尊関係の記事である。
  是に、日本武尊の曰わく、「蝦夷の凶しき首、 咸くその辜に伏いぬ。唯信濃国・越国の
  み、頗る未だ化に従わず」と。(中略)是に、道を分ちて、吉備武彦を越国に遣して、其
  の地形の嶮易及び人民の順不を監察せしむ。則ち、日本武尊は信濃に進入しぬ。(中
  略)美濃に出づることを得つ。吉備武彦、越より出でて遇いぬ。(後略)
 ここに描かれた吉備武彦について、『紀』は系譜を記さず、『古事記』(以下『記』)は吉備臣らの祖、名は御友耳建日子とする。『記』『紀』の間に微妙な食違いがあり、理解しにくいが、吉備氏関係の系譜(図44)を掲げておく(門脇禎二『吉備の古代史』)。
図44 『記』『紀』王統譜とキビツヒコ一族

図44 『記』『紀』王統譜とキビツヒコ一族

 ここで稚武彦命(若武彦)と吉備武彦との関係は、『記』『紀』ともに明瞭ではないが、おそらく後者は前者の子か孫にあたるのであろう。したがって「国造本紀」に出てくる建功狭日命は、吉備武彦の子か兄弟にあたることになる。だからといって、これらのことを史実とみるものではない。「国造本紀」の記事は、『紀』の日本武尊説話から導き出されたものであろう。しかし、少なくとも吉備臣の祖某が越国の鎮撫に赴いたという伝承のあったことは認めねばなるまい。
 問題はこうした伝承が成立した時期である。角鹿国造の出現時期としては、一つの目安として向出山一号墳(敦賀市)の築造時(五世紀末ごろ)が考えられる。だがこのころ、吉備地方の大首長としての吉備氏はすでに衰退期にあり、自家の伝える説話を『記』『紀』に反映させることは、困難となっていたと推定される。それゆえ、吉備武彦と越国との説話は、もう少し古い時期に成立していたのではないかとも考えられる。
 しかし敦賀の国造として、より蓋然性をもっているのは角鹿海直であろう。これは『記』孝霊天皇段に、「次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣・五百原君、角鹿の海直の祖なり」としてみえる。これだけではこの氏が国造であったかどうか判然としないが、一般に「直」は国造に多い姓である。また奈良時代の史料に、角鹿直・敦賀直と称する人名がみえる。すなわち角鹿直綱手は、天平三年(七三一)、敦賀郡少領であり(公二)、敦賀直嶋麻呂は、天平神護元年(七六五)、藤原仲麻呂の乱における戦功により外従五位下に叙せられている(編二一〇)。また平安時代に入ってからも、角鹿直福貴子・角鹿直真福子などは、宮廷に仕え五位に任ぜられている(編三七九・五〇二)。これらの人びとは、おそらく敦賀郡の豪族で、国造家の後裔と考えられる。したがって、かつての角鹿海直、のちの角鹿直が国造に任ぜられていた可能性は強い。もっとも、両者を別にとらえる説もあり、角鹿海直を丹後の海部直や吉備の海直と関連的に考察する視角も残しておきたい(『敦賀市史』通史編上)。なお、角鹿海直と吉備臣との関係については不明であるが、両者ともに孝霊天皇を祖とする同族関係の伝承があることは注目すべき事象である。
 



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