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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    二 四つの国造
      若狭国造
 「国造本紀」は、若狭国造の起源を「遠飛鳥朝御代、膳臣祖佐白米命児荒砺命定賜国造」(法一六〇、以下、「国造本紀」の引用は同じ)と記す。遠飛鳥朝御代とは、允恭朝であるから、およそ五世紀の中ごろであろう。それに先立ち『紀』の履中三年十一月朔条に膳臣関係の記事があり、膳臣余磯の風流を賞でて、稚桜部臣の姓を与えたという。ここに若狭の国名はみえないが、『本朝月令』所引の「高橋氏文」によれば、景行朝のこととして、東国巡幸の折、磐鹿六命が白蛤と堅魚とを取り、料理して献上した功により、膳臣の姓と大伴部を賜い、また若狭国を永く子孫の国家とせよと授けられたという。これらにより、膳氏が若狭の国造に任ぜられたことはほぼ信じてよいのではなかろうか。
 膳氏は『紀』によれば孝元天皇の後裔で、宮廷の食膳を司った氏族であるが、大王側近として信任を受け、転じて外交・軍事面でも活動した。景行朝の磐鹿六雁、履中朝の余磯、雄略朝の長野斑鳩、安閑朝の大麻呂、欽明朝の巴提便・傾子などが『紀』に記載されている。
 若狭の古墳としては、脇袋古墳群・天徳寺古墳群・船塚古墳群(上中町)などが名高いが、なかでも脇袋古墳群の西塚古墳、天徳寺古墳群の十善の森・丸山塚古墳は発掘調査が行われている。きわめて畿内的な性格をもつとともに、朝鮮半島的な色彩が濃いといわれている。また、若狭は古くから「御食国」として位置づけられている(狩野久『日本古代の国家と都城』)。これらのことは上述の膳臣に関する記載と矛盾しない。したがって脇袋・天徳寺両古墳群は、膳臣の奥津城と考えてさしつかえないであろう。膳臣が若狭に勢力を伸ばしたのは、脇袋古墳群が成立する五世紀前半ごろとみてよいようである。「国造本紀」の国造設置年代のうち允恭朝は最も遅いものの一つである。



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