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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      高句麗使の相次ぐ来航
 翌五七三年五月、高句麗の使人が越の海岸に来着した。この時も難船して、溺死するものが多かった。この越がどこを指しているのかは明らかではない。ヤマト朝廷はこうした来着の仕方に疑問をもち、入京させることも饗応もせず、現地から帰還させることにした。そこで吉備海部直難波を送使に任命した。この吉備氏は後述するように、角鹿と若干の縁故があるので、この任命からみれば、高句麗使が来着したのは敦賀付近の可能性もあるようである。吉備海部直難波は高句麗の二人と同船し、高句麗の船には大嶋首磐日・狭丘首間狭を乗せた。難波は出発して数里の沖合いで、高句麗の二人を海に投げ入れ、自分はそのまま船を引き返させた。難波は、鯨が高句麗人を飲みこんだように復命したが、敏達天皇はその言を信じなかった。
 翌五七四年、高句麗の使者がまたやってきて、越の海岸に着いた。この越も正確な地点は判明しない。高句麗の使人は入京すると、上奏して、「我は去年使者として来朝した一人です。我らは無事国に帰り、一緒に来た大嶋首磐日らを厚く饗応しました。しかしいくら待っても送使の吉備海部直難波や、一緒に乗った高句麗人二人は到着いたしません。そこで我は磐日らを送りかたがた、これらの人びとの消息を伺いにまいりました」と言った。敏達天皇はこれを聞いて、送使であった吉備海部直難波の虚言を知り、隣国の使者を溺れ死なせた罪を責めて断罪したという。
 このように高句麗使は、四年の間に三回まで、越の海岸に来着している。その主要な目的は国交を結ぶことであろう。しかしヤマト朝廷はそれに答える対応をしなかったようである。高句麗の使者がそののち途絶えてしまったのは、おそらくそのためであろう。しかし越にとっては、この高句麗使の来着は相当大きな意味をもっているといってよい。というのは正式な国交はついに開かれなかったが、私的な交流はそののちも続いたとみることができるからである。



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