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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      高句麗使の都入り
 高句麗使たちは、迎えによって入京することになった。『紀』欽明天皇三十一年七月壬子条に「高麗の使、近江に到る」とあるから、現在の福井県内を通過したことは疑問の余地がない。さらに「是の月に、許勢臣猿と吉士赤鳩を遣わして、難波津より発ちて、船を狭狭波山に控引して、飾船を装いて、乃ち往きて近江の北の山に迎えしむ」とみえる。この北の山の正確な位置はわからないが、おそらく琵琶湖の北岸であろう。したがって、高句麗使は敦賀から七里半越えか深坂越えか、いずれかの道を通って近江塩津か海津の港に出たものであろう(第四章第三節)。またこれにより、船を琵琶湖に廻すのに、陸路船を担ぎ上げた場合もあったことがわかる貴重な史料である。
 高句麗の使者たちは、山背相楽(京都府精華町)の迎賓館で饗応された。しかしそのころ、欽明天皇は病篤く、ついに高句麗使と対面しないまま没した。あとをついだ敏達天皇が、その元年(五七二年)五月、使者たちと対面し、国書を受けた。この間、副使が大使を殺害するという事件が起きた。同年七月、高句麗使は帰国したが、出発の場所は明らかでない。



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