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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      道君と江沼臣
 この記載から、道君は最初高句麗使に向かって、みずから天皇であると言ったらしい。もちろんこの時代に天皇という用語はなく、大王といったはずであるが、高句麗使は疑いながらも、調物などを渡してしまったらしい。道君には、その言葉を裏づけるだけの勢威があったのであろう。この道君の勢力範囲はどのあたりに考えるべきであろうか。
 弘仁十四年(八二三)に加賀国が越前国より分立したときは、加賀・江沼の二郡にすぎなかった(そののち、加賀郡より石川郡、江沼郡より能美郡が分かれ、四郡となる)。江沼郡は江沼臣、加賀郡は道君の勢力範囲とみてよいであろう。加賀郡と江沼郡の境は手取川(比楽川)と考えられる。
図43 加賀地方南部の概要図

図43 加賀地方南部の概要図

 道君の名称は、加賀郡味知郷と関係あるとみる意見が強い。味知郷は鶴来町を含む手取川東岸地帯に比定されるから、道君の本拠は加賀郡のうちでは比較的南に位置し、江沼郡と接していたようである。道君と江沼臣との不和は、こうした地理的位置にも由来しているかもしれない。ただし、南の江沼平野に位置する江沼古墳群の被葬者層が江沼臣と結びつけて理解されている(浅香年木『古代地域史の研究』)。
 道君と江沼臣の不仲の主因は、白山信仰の主導権争いにあるという説がある(藤間生大「いわゆる継体欽明朝内乱の政治的基盤」『論集 日本歴史』一)。はたしてこの時代から白山信仰が生まれていたかどうか、また争うほど利権に関係したものであったか、疑問であるが、ともかく隣接する豪族どうしの間には、いろいろな利害の対立する原因はあったであろう。
 ところで「国造本紀」によれば、江沼国造は「柴垣朝御世、蘇我臣同祖、武内宿四世孫志波勝足尼定賜国造」となっており、加賀については加我国造と加宜国造の二項があり、加我国造は「泊瀬朝倉朝御代、三尾君祖石撞別命四世孫大兄彦君定賜国造」、加宜国造は「難波高津朝御世、能登国造同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっている。ここで能登国造同祖となっているが、能登国造は「志賀高穴穂朝御世、活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命定賜国造」とあり、大入来命は、『記』に能登臣祖として出てくる大入杵命と同一人物と思われる。明らかに加宜国造の祖とは違っている。加宜国造と同祖なのは、高志深江国造で、「瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっていて、明らかに同一人物を祖先としており、かつこれによって加宜国造が道君であることもうかがわれる。ただし素都乃奈美留命については不明であり、加宜国造は仁徳(難波高津)朝、高志深江国造は崇神(瑞籬)朝の成立となっていて、この伝承の不確実性を示している。
 しかし道君は、後述のように、武内宿系との伝承をもっており、これによって三国国造・伊弥頭国造・利波臣・江沼臣などと同祖関係を結んでいるわけである。のちに推定するように、道君は六世紀の後半ごろ、蘇我氏と接触をもち、同祖系譜を手に入れたのではなかろうか。ただし『新撰姓氏録』は道公(君)を大彦命の後裔と伝えているから、そうした伝承をもった時期もあったのであろう。
 なお加我国造については、三尾氏系と伝えるのであるが、加宜・加我両国造が別の地域に併存したのか、それとも一つの加賀国造がある時点で交替したのかは明らかでない。後者とすれば、道君は平安時代まで続く名族であるから、三尾氏系の方が早く衰退し、道君にとって代わられたことになるだろう。



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