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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      高句麗使の漂着
 第三節にみた若越地方の諸生産および人びとのくらしの進歩と変化のなかで、この地方の政治状況も、内外から迫る動きに触発されて大きく変わってきた。とくに、ヤマト朝廷の新たな支配様式が及んできた。
 『日本書紀』(以下『紀』)欽明天皇三十一年(五七〇)四月乙酉条に、「越の人江渟臣裙代、京に詣りて奏して曰わく、『高麗の使人、風浪に辛苦し、迷いて浦津を失えり。水の任に漂流いて、忽に岸に到着す。郡司、隠匿せり。故、臣顕し奏す』と。詔して曰わく、『朕、帝業を承りて若干年なり。高麗、路に迷いて始めて越の岸に到る。漂溺に苦しむと雖も、尚性命を全うす。豈徽猷広く被らしめ、至徳巍巍に、仁化傍く通わせ、洪恩蕩蕩たるに非ざらんや。有司、山城国相楽郡に館を起て、浄め治いて厚く相資養せよ』と」(写真33)とあり、さらに同年五月条には、「膳臣傾子を越に遣して、高麗の使に饗たまう。大使、審かに膳臣は是皇華の使なるを知る。乃ち道君に謂いて曰く、『汝、天皇に非ざること、果たして我が疑えるが如し。汝、既に伏して膳臣を拝めり。倍復百姓なることを知るに足る。而るに、前に余を詐りて調を取りて己に入れたり。宜しく速やかに之を還すべし。煩しく語を飾るなかれ』と。膳臣、聞きて人をして其の調を探索し、具に為与う。京に還りて復命す」(編五四)とみえる。
写真33 『日本書紀』

写真33 『日本書紀』

 これは、高句麗との国交に関する最初の確かな記事とみられる。しかしながら一方には、この記事が膳氏の家記から採られたものであり、朝鮮側の史料によらない欽明紀の記述の多くが一般的に後世の創作であるから、この記載にもあまり信頼を寄せるべきではないとの所論がある。もちろん、国内伝承にもとづいたこの記事に過度の信頼はおけないが、初めての高句麗使節の来着という大きな国家的行事であってみれば、これをまったくの創作とみることもできないであろう。またここに伝えられた道君と江渟(沼)臣の確執にしても、その時点まではほぼ第三者的立場に立っていた膳臣の所伝であろうから、かえって客観性があるとも考えられる。



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