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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    三 群集墳(墓)の展開と消滅
      群集墳(墓)の消滅
 七世紀前葉になると、これまで県内各地域にみられた群集墳(墓)はまったくといってよいほど築造されなくなる。ヤマト政権が新たな規制を実施すると同時に、新たに中央集権的な支配体制を確立したものと考えられる。七世紀になると畿内にもはや前方後円墳は築造されなくなり、八角墳・方墳・円墳が有力首長たちに採りいれられる。
 このころの古墳と推定されるものとしては、姥ケ谷古墳(三国町)が発掘されているのみである。この古墳は、三国湊を見おろす陣ケ岡台地の西端に立地していた。一辺約三八メートル、高さ約五メートルの方墳で、二段築成で葺石をもつ。周囲に周溝をめぐらし、北東裾辺の中央部に葺石を斜面にもつ陸橋を設けている(図42)。墳頂の中央部は完全に盗掘されており、遺骸埋葬施設はその痕跡さえも確認できなかった。また、この古墳と関係ある遺物は一点も検出されなかった。しかし、横穴式石室や木棺の直葬は想定できず、すでに述べた新しい時期に比定されている。発掘されていない古墳で、このころに推定されているものは、酒生古墳群の篠尾支群の山麓部に築かれた円墳・方墳からなる一群のみである。
図42 姥ケ谷古墳墳丘の実測図

図42 姥ケ谷古墳墳丘の実測図

 このほか、過去に採集された遺物であるが、上船塚古墳(上中町)の付近や横山古墳群(金津町)で出土したと伝えられる大和の影響を受けた須恵質陶棺(家形四注式)片は、七世紀前葉ごろに比定でき、その被葬者は下級官人と考えられている。これらの被葬者は、官人化した地域の首長層であって、彼らはヤマト政権の指示を受けて、群集墳(墓)築造の力を耕地の拡大や寺院・官衙の造営といった国家的事業へと向けていき、農民を疲弊させていったのである。
 



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