目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    三 群集墳(墓)の展開と消滅
      群集墳(墓)の被葬者
 横穴式石室や横穴墓の規模あるいは副葬品の優劣などによって、群集墳(墓)の被葬者のなかにも階層差のあったことが推測できる。たとえば、馬具を例にあげると、(1)金銅装の馬具をもった古墳、(2)鉄製の馬具をもった古墳、(3)馬具をもたない古墳の三つに分類できる。後者になるほど古墳・横穴の数が多くなることや石室(横穴)の規模が小さくなることから、(1)は地域首長墓であり、(2)は有力な家族(世帯共同体)の家長墓、(3)は一般の家族(世帯共同体)の家長墓と考えられる。また、いずれの古墳・横穴も武器を副葬していることから、戦時には(1)の首長の下で、(2)は騎兵として、(3)は歩兵として参戦したものと考えられる。
 六世紀後葉に群集墳(墓)が盛んに築造されたのは、五世紀後葉における鎌や鍬(鋤)の鉄製農具の改良成果と量的な普及、それにもとづく技術の発展による農業生産の増大と、それを中心とした須恵器・塩・鉄などをはじめとする手工業生産の発展があったからである。そしてその結果、生産の担い手である民衆の間に階層の分化が進行し、一定の富を蓄える階層が広く出現したことによる。そして、彼らは各種の耳飾りや首飾りをするほどに豊かになった。しかし、逆にいえば古墳の築造を容認された彼らは、擬制的同族関係によってヤマト政権下に完全に組み込まれることになったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ