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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    三 群集墳(墓)の展開と消滅
      横穴式石室と横穴墓の普及
 群集墳(墓)の内部構造は、横穴式石室(写真42)と横穴墓(写真32)である。横穴式石室は、普通は遺骸を安置する主室(玄室)とその前方に設けられた外部から主室に通じる通路(羨道)からなる。この石室は、朝鮮半島を経て学んだ大陸系の墓で、四世期末に老司古墳(福岡市)や鋤崎古墳(福岡県苅田町)に採りいれられた。
 若狭の古墳に横穴式石室が取り入れられたのは五世紀中ごろで、向山古墳(上中町)が最初であった。一方越前では、六世紀前後に椀貸山古墳(金津町)、天神山古墳三ツ禿一・三号墳(鯖江市)などに横穴式石室が取り入れられたのが最初で、若狭より遅れている。しかし、県下一円に広く普及するのは六世紀後葉で、群集墳の内部構造としてである。
 横穴式石室を構築するには、多数の石材の運搬などに多勢の人手を一時的に必要とし、またその構築には専門の技術者の指導をも必要とした。横穴式石室は、重い石を多数利用することから、またその利便さからも山麓に多く築かれることになったのである。
 横穴墓は、石材を積んで石室を構築するかわりに、山腹や台地の縁辺などに横から穴を掘り込んで墓室を作ったものであり、玄室と羨道を有することは横穴式石室とほぼ同じである。
 これらの玄室からの出土品には、一般に首飾り(勾玉・管玉・小玉・丸玉など)、耳飾り(耳環など)、武器(鉄刀・鉄鏃・弓・鉄鉾など)、武具(甲冑・胡など)、馬具(轡・鏡板・杏葉・辻金具・鞍金具・鐙など)、工具(刀子・・斧など)、紡錘車、多数の須恵器(坏・高坏・平瓶・横瓮・提瓶など)と若干の土師器(坏・高坏・壷・甕など)がある。
写真32 武者ケ谷3号墳の横穴墓

写真32 武者ケ谷3号墳の横穴墓

 横穴墓である武者ケ谷支群二号墳(小浜市)の須恵器のうち有蓋坏の二個の中には鮑の貝殻が、二子山古墳(高浜町、前方後円墳)の須恵器(蓋坏)の中には小魚の骨が入っており、多数の土器の中には山海の珍味が盛られ供えられていたことがわかる。また、衣掛山三・一五号墳(敦賀市、円墳)からは製塩土器が出土し、被葬者が製塩と関係する氏族の一員であったことを物語る。衣掛山古墳群は、敦賀市域内で最大規模の群集墳であることから、律令時代に活躍する角鹿海直に連なる一族の墓である蓋然性は高い。玄室内からは何対もの耳環や多数の供献土器、多数の人骨がみつかり、さらにいくつもの棺座の配置状態などから、何回も追葬のなされたことが明らかになっている。



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