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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    二 人びとのくらし
      鏡・埴輪にみる家屋
 弥生時代にすでに当時の家屋のようすが、銅鐸に描かれている。弥生時代前期末の井ノ向二号鐸の絵画のなかにその例をみることができる(図38の@のA)。それは高床の建物であり、千木(屋根の破風の両端に×字状に交差させた木)やかつお木(建物の棟木に横に並べた飾り木)がみられる。首長の館であろうか。同じく中期前半の井ノ向一号鐸には普通の建物の六倍の高さに築いた建物に梯子を掛けたようすが描かれている(図38の@のB)。物見の櫓であろうか。
 古墳時代になると、鏡に描かれた家屋や家形埴輪などから当時の建物のようすを知ることができる(図38のA〜35)。A〜Dは古墳時代前期の佐味田宝塚古墳(奈良県河合町)から出土した製鏡の家屋文鏡に描かれている家屋である。Aは竪穴式住居であり、Bは平地式住居である。Cは高床の倉庫であり、Dは高殿である。一方、越前においては、E・Fが同じく前期の松明山二号墳(今立町)から出土した家屋人物獣文鏡に描かれている家屋である。Eは平地式住居であり、戸口もみられる。Fは高床の建物であり、棟の端に棟飾がみられる。また、両方の建物に軒飾がみられる。鏡に描かれた家屋は、国内ではこれら二面の鏡以外にはなく、きわめて貴重な資料といえるのである。
 G〜Iは、古墳時代前期の六呂瀬山一号墳(丸岡町)から出土した家形埴輪である。入母屋造りであり、四つの壁面には詳細に草壁のようすが線刻されており、たいへん写実的である。戸口は長側壁面に一つあり、いわゆる平入りである。建物は梁行六間、桁行七間ある。六呂瀬山一号墳では、このほか切妻家屋の破風が確認されている。
 11〜33は中期の六呂瀬山三号墳から出土した家形埴輪片であり、その出土数は多い。11〜14は切妻家屋の棟につくかつお木である。15〜17は棟の一部分であり、15には押縁が凸帯で表現されている。18は軒先である。19〜21は切妻家屋の破風の部分であり、21は妻の部分の棟柱である。22は妻の部分が線刻されている。数棟の切妻家屋の家形埴輪があることはまちがいない。23〜33は屋根や壁面の文様である。
 34・35は古墳時代中期の重立山一号墳(福井市)から出土した家形埴輪である。入母屋造りで、棟の押さえや妻の部分が丁寧に線刻によって表現されている。長側壁面の一方には二つの窓が、もう一方には一つの窓があけられている。短側壁面の一方には戸口が、もう一方には窓があけられている。妻入りの建物といえよう。
 このほか、家形埴輪を出土した古墳には、中期の石舟山古墳(松岡町)・天神山七号墳などがあるが、いずれも小破片であり、復元までにはいたっていない。北陸道域で復元された家形埴輪は、六呂瀬山一号墳と重立山一号墳から出土した二棟のみであり、きわめて貴重である。
 ところで、家形埴輪を出土する古墳は、広域首長墳か有力な地域首長墳であり、いずれも遺骸埋葬施設の上部ないしは近辺の墳頂部から出土することから、生前から勢威のあった彼らは、死後も生前と同じように豪勢な家屋ないしは家屋群のなかで生活することを願ったものと考えられている。
図38 銅鐸・鏡・埴輪にみられる家屋

図38 銅鐸・鏡・埴輪にみられる家屋



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