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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    二 人びとのくらし
      祭祀の発展
 祭祀遺跡とは、自然のなかに神霊の存在を信じ、これに対する崇拝行為や儀礼などを行ったと考えられる遺跡であり、そこからは祭祀に関係した祭具が出土する。
 古墳時代の前期については、越前・若狭のようすは発掘例がなく明らかでないが、宗像大社沖津宮(沖ノ島)の祭祀遺跡(福岡県大島村)では、実用の鏡・玉・刀・石製宝器・工具などが岩上や岩陰から出土している。これらは、当時の広域首長クラスの古墳の副葬品とまったく変わらず、古墳の祭祀と神霊の祭祀とが未分化であったことがわかる。
 古墳時代の中期になると、浜遺跡(大飯町)、田名遺跡・小川遺跡(三方町)、木田遺跡・糞置遺跡(福井市)で祭具が発見されている。とくに祭祀遺跡の遺存状態の良かった田名遺跡についてみると次のようであった。
 この祭祀跡は、川の左岸から約一〇〇メートルの平地にあり、祭祀跡一・二は南北に約五〇メートル離れて残されていた。
 南側に位置する祭祀跡一は九平方メートルにわたって広がり、手捏土器・土師器・須恵器の土器集積がみられ、とくに東側に手捏土器の集積が顕著であった。遺跡は海抜四・六メートル前後の炭混り黒褐色粘性土層面に所在したが、形態までは把握できなかった。土師器は、高坏・甕を中心とするが原形はとどめず、須恵器は坏・高坏がみられるが出土点数が少なかった。いずれも、五世紀後葉から末葉にかけてのものである。手捏土器は、完全な形の土器および器形のわかる大型破片が九二点検出され、甕形一四点、平底深鉢形一三点、丸底深鉢形四点、形二八点、皿形三三点あり、形と皿形とでその半数以上を占めている。ほかに、石製の模造品の扁平勾玉一点、臼玉三五三点、ガラス小玉二点が出土している。
 北側に位置する祭祀跡二からは三平方メートルにわたって手捏土器・土師器・須恵器・臼玉などが検出され、上屋状の施設の存在も想定されている。時期は、祭祀跡一と同じころである。
 このほか、田名遺跡から古墳時代の祭祀遺物としてミニチュア土器、勾玉、管玉、紡錘車、土製の模造品(鏡・勾玉・紡錘車)が検出されている。
 これらの祭祀跡では多量の遺物をともなうことから、個人による祭祀というよりもムラの祭祀が行われたと考えられる。また、祭祀跡一・二から、同じ時期の製塩土器(浜UA式)の細片が多量に検出されており、祭祀にともなう遺物とも考えられ、焼塩土器として搬入された可能性もあると考えられている。
 ところで、古墳時代中期の祭具は、同じ形態のものが越前・若狭のみならず全国各地にみられることから、ヤマト政権により統一された祭祀儀礼による神祭が各地で行われたことを示すとともに、神祭に従事する職業的な専業集団の成立を示唆するものと考えられている。
 古墳時代の後期になると、祭具の石製の模造品はしだいに姿を消し、土製の模造品を主体とする方向へ推移していく。これには浜遺跡が該当する。このあとは、「神社」の成立とそれを中心とする祭祀へと発展していく。
 一方、これまでにふれなかった祭祀関係の遺物で、越前で発見されているものに子持勾玉がある。子持勾玉はその名称のごとく、大形の勾玉の腹・脇・背の各部に、それぞれいくつかの小形の勾玉形小突起を付けたものである。石材はほとんど滑石でつくられている。全国では、約二六〇余遺跡から計約三〇〇余個の出土が報告され、朝鮮半島からも若干出土している。時期的には五世紀ごろに出現して、六世紀代に盛行し、七世紀に下るものもあるといわれている。北陸道域での出土遺跡数は越前二、加賀二、越中三、越後八となっている。
 越前では、長屋遺跡(坂井町)から二個、伊井遺跡(金津町)から一個出土しているだけであるが、いずれも時期は古墳時代の後期で六世紀前葉ごろである。
 子持勾玉は、勾玉のもつ呪力を一層増すために小形の勾玉を数多く付け加えたもので、呪力の生成・増殖・豊穣を意味するところにその本来の性格があると考えられている。そして、石製模造品の祭具と同じように、ヤマト政権と密接な関係をもつ祭具と考えられている。



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