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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    二 人びとのくらし
      乗馬のはじまりと普及
 馬具を出土した古墳は、越前では二三基、若狭では一三基である。いずれの古墳も、横
穴式石室をもつ。北陸道域のなかでは、福井県が馬具出土古墳が一番多い(図37)。
図37 馬具出土古墳の分布

図37 馬具出土古墳の分布
馬具の副葬品といっても、具や轡のみといった古墳から、かなり馬具のそろった古墳までいろいろある。多い順に示すと、轡関係部品約七〇パーセント、鞍関係部品約六〇パーセント、雲珠・辻金具関係部品約五〇パーセント、鐙関係部品約四〇パーセント、杏葉約二〇パーセント、馬鈴・環鈴約一〇パーセントとなっている。
 馬具が副葬品としてみられるのは、若狭の西塚古墳が最も古く、五世紀後葉に位置づけられている。越前では椀貸山二号墳(丸岡町)が最も古く、六世紀前葉に位置づけられている。すなわち、越前では若狭より四半世紀遅れて馬具が導入されている。
 初期の馬具を出土した古墳が、越前・若狭いずれも前方後円墳であり、まず広域首長やその一族、またその配下の地域首長に導入されたことがうかがえる。しかも、当初から金銅製馬具をもつ古墳が多いことから、騎馬戦用というより彼らの勢威と信望を示すものといえよう。これが第一段階である。
 第二段階では、前方後円墳が築造されなくなり、馬具を副葬するのは円墳であり、かつての広域首長の後裔や地域首長や有力家長の古墳に馬具が副葬されるようになる。越前では六世紀後葉から七世紀初葉にかけての時期にあたる。若狭では六世紀前葉から七世紀初葉にかけてで、とくに六世紀中葉に集中する。この意味において、若狭は西日本的であり、越前は東日本的である。
 この段階において、越前・若狭で金銅製馬具をもつものは、広域首長の後裔や有力地域首長と考えられる被葬者のみであるが、七世紀前葉になると、小規模古墳の被葬者のなかにも、それをもつものが現われており(丸山四号墳、鯖江市)、当時の社会組織のなかに大きな変動のあったことがうかがえる。一方、このころになると古墳築造数とともに、馬具出土古墳数が減少していることは注目すべきことである。彼らは中央にトネリ軍などとして出仕し馬具を拝領したのであろう。それゆえ、この時期以降七世紀中葉までを第三段階とする。



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