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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    一 人びとの生産
      須恵器の生産
 須恵器は、野焼きで焼成された赤褐色ないしは茶褐色の土師器と違って、窖窯を使って一〇〇〇度もの高温の還元状態で灰色ないし灰黒色に焼成された硬質の土器である。
 この生産技術は、日本に五世紀初めごろに朝鮮半島からもたらされたと考えられている。『日本書紀』は、朝鮮半島から渡来した帰化工人によって須恵器生産がなされたと伝える。それはともあれ、この生産技術は中国の灰陶に起源をもち、直接的には朝鮮半島南部の金海式土器(陶質土器)の生産技術がわが国にもたらされたことは実物の類似からして疑いない。
 越前・若狭では、五世紀中ごろから須恵器が登場するが、これらは大阪府泉北丘陵の陶邑産のものだと考えられている。越前・若狭での須恵器の生産は、約一世紀ほど遅れて六世紀初めごろ開始された。越前では鎌谷窯跡(金津町)、若狭では興道寺窯跡(美浜町)がそれである。いずれも各種土器のほかに埴輪も焼成している。近接して同時代の古墳群があり、それぞれの製品が副葬品として入っている。前者は横山古墳群(椀貸山一号墳など)、後者は興道寺古墳群(獅子塚古墳など)がある。これらのことから、窯は埴輪をもつ古墳の被葬者(地域首長)によって、主として明器(死者と一緒に葬る副葬品)や食器を作るために営まれたことがわかる。なお、五世紀中ごろの越前・若狭の古墳である泰遠寺山古墳(松岡町)や向山一号墳(上中町)が、窖窯焼成の須恵質の埴輪を有していることから、須恵器の生産はさらにさかのぼる可能性もある。
 六世紀後葉から七世紀前葉にかけての窯跡には、興道寺窯跡(美浜町、近接する古墳は興道寺古墳群)、広瀬林正寺窯跡(武生市、茶臼山古墳群)、賀茂神社窯跡(清水町、?)、弁財天谷窯跡(松岡町、春日山古墳)、大畑窯跡(永平寺町、永平寺古墳群)、野中山王窯跡(丸岡町、丸岡古墳群)、瓦谷窯跡・鎌谷窯跡(金津町、横山古墳群)がある。これらのことから、須恵器の窯が各地域の首長層に受け入れられ、一層広まっていったことがわかる。



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