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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    一 人びとの生産
      塩の生産
 古墳時代の製塩遺跡は、若狭で二七か所、越前で一〇数か所確認されている。若狭は越前の二倍以上の製塩遺跡があり、塩の生産が越前に比べて盛んであったことがわかる。
 製塩遺跡から出土する製塩土器については、同志社大学や若狭考古学研究会の発掘調査や研究によって編年が次のようにでき上がっている(図35)。
図35 古墳時代における製塩土器の変遷

図35 古墳時代における製塩土器の変遷

 浜T式のものは若狭の浜遺跡(大飯町)、阿納塩浜遺跡・堅海定元遺跡(小浜市)の三か所で検出されている。時期は四世紀末〜五世紀前半で、倒坏形の脚部を有するブランデーグラス状の形態を有し、容量は一〇〇〜三〇〇tで小型の器種が多い。製塩炉は粘土敷炉である。
 浜UA式のものは若狭で一七か所、越前の新保A遺跡(三国町)で一か所検出されている。時期は五世紀後半〜六世紀前半で、薄手のコップ型で丸底を呈し、容量は三二〇〜三五〇tで規格化されている。
 浜UB式のものは若狭で二九か所、越前で六か所検出されている。古式は六世紀後半で、口径一〇センチメートル前後で、鍋底のような丸底を呈すると推測されている。新式は七世紀で、容量が二〇〇〇tに達する深鉢状の器形を呈する。製塩炉はいずれも敷石炉である。
 このような変遷から、まず、備讃瀬戸で弥生時代中期に成立した台脚をともなう製塩土器が大阪湾沿岸を経て若狭にもたらされ、次に備讃瀬戸や大阪湾沿岸で薄い器壁の小型丸底土器が使用されはじめると、それが若狭にも波及したとみられる。一方、このころほかの地域では相変わらず台脚をともなう製塩土器が使用されている。この段階から、若狭の塩は、ヤマト政権の塩生産の一翼を担ったものと考えられる。さらに次の浜UB式の段階になると、製塩土器はさらに大型化するとともに、遺跡数もさらに増加し、塩生産の増産がはかられたことがわかる。
 越前の製塩土器も、若狭のそれと同じ変化を示すようであるが、遺跡数も現在のところ少なく、明確に位置づけることができない。



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