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 第二章 若越地域の形成
   第三節 人びとの生産と生活
    一 人びとの生産
      碧玉石製品の生産
 古墳時代前期の有力な古墳には、副葬品として碧玉石製品が含まれている。碧玉石製品とは、鍬形石・車輪石・石釧の碧玉製の腕飾類のほか、合子・紡錘車・鏃などの器物を碧玉で模したものなどである。碧玉製の腕飾類や器物は、それぞれ実用の品ではなく、首長権の継承儀礼が行われた際の儀式用の器として、ヤマト政権の管掌のもとに製作されて各地の有力首長に配布され、彼らの権威と信望を示すもの(威信財)として機能した。
 鍬形石は、巻貝ゴホウラを縦に切った貝輪の形を碧玉にうつしたものであり、同じように車輪石はカサガイやオオツタノハ、石釧はイモガイをそれぞれ碧玉にうつしたものとされている。これら南海産の貝を利用した貝輪は弥生時代に九州北部を中心に分布し、人びとに愛用されたものである。これらの一部が、畿内にもたらされ、碧玉製の腕飾類が創出されたとみられている。
 碧玉石製品の分布をみると、その中心は畿内にある。鍬形石は九州東北部から北陸・東海地方までに、車輪石・石釧は九州西部から関東地方にかけてみられる。とくに、鍬形石の分布とヤマト政権から各地の有力首長に配布されたとみられる三角縁神獣鏡の分布とがほぼ重なりあうことから、碧玉石製品は古墳で行われる祭の儀式と古墳づくりの波及にともない、ヤマト政権より各地の有力首長に鏡などとともに配布されたものと考えられている。
 そのような碧玉石製品の製作地は今のところ畿内では確認されていないが、北陸地方に一〇遺跡、関東地方に四遺跡、長野県に一遺跡、島根県に一遺跡が知られている。それらのうち北陸地方で製作したことのわかる遺跡は、越前の北部から加賀一帯に限られており、遺跡数・分布密度の両面からみて全国で最も集中度の高い生産地帯であったことを示している(表11)。

表11 碧玉石製品の製作地と出土遺物

表11 碧玉石製品の製作地と出土遺物
 越前の北部の碧玉石製品の製作地は、河和田遺跡(坂井町)と伊井遺跡(金津町)である。ともに福井平野の自然堤防上にあり、玉作工房跡が検出されている。前者では、車輪石・紡錘車をはじめ石釧未成品・管玉未成品・形割未成品のほか、砥石・剥片・原石などが多数発見されている。後者では、車輪石・石釧をはじめ、管玉未成品・形割未成品・砥石・剥片・原石などが発見されている。また、前者では、碧玉のほかに鉄石英が、後者では碧玉のほかに白メノウも検出されている。
 越前での碧玉の産地は、金津町清滝川上流の谷間や福井市田ノ頭町の山中で確認されている。とくに後者の碧玉は良質であり、そのなかに鉄石英をも含む。これらの石材が、両玉作遺跡へ供給されたものと考えられる。
 碧玉石製品の製作地とその分布の中心地とが重ならないことが明らかになったが、これらはすでに述べたようにヤマト政権からの要望に応えて、越前の広域首長が配下の地域首長をとおすなどして、玉作工人に碧玉石製品を製作させ、貢納したものであろう。このことは、北陸地方で古墳に副葬した鍬形石が出土したのは、小山谷古墳(福井市)と小田中親王塚古墳(石川県鹿島町)だけであり、ほかの碧玉石製品に広げても六例と少ないことからもうかがえる。また、碧玉石製品が盛んに製作された時期(四世紀中ごろ)に越前の広域首長墳が出現することからみても明らかである。
 ともあれ、北陸地方が碧玉石製品の主たる製作地になることができたのは、良質な碧玉産地であり、弥生時代中期以降、碧玉の管玉をはじめ硬玉の勾玉の産地としてよく知られており、また現地にすぐれた技術が集積されていたことによるのである。



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