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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     四 継体天皇崩後の情勢
      継体天皇崩後のコシ
 ところで、継体天皇崩後の形勢のなかで、継体天皇進出の基地であった越前の情勢はどのようなものであったか。一般的にいえば、地方勢力衰退傾向をたどっていったに違いない。第一節の越前の古墳文化の動向からもそれが推察できる。しかしコシの情勢そのものを具体的に示す文献史料は皆無に近い。そのなかでやはり注目されるのは『上宮記』の記載である。『上宮記』の成立年代が推古朝もしくはその直後であることは、定説としてよい。そうであるならば、その内容も継体天皇出現時代を反映するよりも、成立当時の情勢を反映している点が多いのではあるまいか。
 たとえば、そのなかには「三国坂井県」との記載がある。これは北陸地方において唯一の「県」の表現である。「県」については数多くの議論があり、ここにはその要約さえも述べることができないが、概していえば、1国と比較して県の方が小さい、2ヤマト朝廷の直轄地の色彩が強い、3天皇制のイデオロギーないし祭祀と密接に関連している、というような性格を有するようである。
 この「坂井県」については、継体天皇が少年時代を過ごした場所として、周辺の土地と比べてヤマト朝廷と関係がとくに深い所だったために県がおかれたという指摘もあるが、『上宮記』の史料上の制約はそのような解釈を許さないと思われる。編纂された史料は、大体において成立した時代の用語によって書かれる。したがって坂井県は、『上宮記』の成立した六・七世紀の交に存在したと考えられるのである。継体天皇崩後に存在した坂井県も「天皇直轄地」としての性格が考えられ、継体天皇の子孫が父祖発祥地たる越前坂井の地をとくに重視していた状況がうかがい知られる。



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