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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     四 継体天皇崩後の情勢
      継体・欽明朝内乱説
 戦後、この両朝併立説をうけてさらに一歩を進め、大規模な内乱説が林屋辰三郎によってうち出された(林屋辰三郎『古代国家の解体』)。「『天皇及太子皇子倶崩薨』というような重大事変は、決して単に皇室内にのみその原因があったとは考えられず、その基づくところはきわめて根深いものがあったとせねばならない」と林屋は説き、さらに「この事変に倒れた継体天皇は、(中略)越前に出自があり、大和勢力とながく相容れない存在であったことをみれば、この内乱が朝廷内部に反映して皇位争奪という形をとることにはたしかな理由があったと思われる」と推断した。林屋によれば、辛亥の変にあたって、継体天皇のあとを継いだのは安閑天皇(勾大兄)ではなく、嫡子欽明天皇であり、これを支えたのは新興の蘇我氏であった。そして三年後に安閑天皇、ついで宣化天皇を擁立したのは大伴氏であった。その間、物部氏は慎重な態度を持していたが、やがて蘇我氏と結んで大伴氏を追放、欽明朝による統一政権が樹立された、というのである。
 しかし、これについては多くの批判説も出たが、とりわけ三品彰英は、前記笠井倭人の『三国遺事』百済王暦の研究のうえに立って、この問題に一石を投じた。今日、われわれが利用しうる朝鮮側の史料としては『三国史記』と『三国遺事』王暦の二種があるが、百済の聖王の即位・薨去の年代については、両史料間に三年の差がある。三品によれば、五三四年甲寅は『三国遺事』によって聖王八年となるが、『三国史記』による聖王八年は、五三一年辛亥となる。したがって『紀』の編者は、最初継体天皇崩年を五三四年としていたのを、史料系統の異なる『百済本記』の説をとって、五三一年にくりあげてしまったので、崩後に三年の空位を生じたのであったという(三品彰英「『継体紀』の諸問題」『日本書紀研究』二)。そして平子・喜田両氏の論文は、問題を深刻化した代表的論文であり、また戦後一部の史家が内乱を流行テーマとしてとり上げたと非難し、「だが問題の空位は撰者の机上で作られたものであり、したがって、その上に組みあげられた諸諸の卓説も、その推論の妙味に名残りを惜みながら捨てて行かねばならない」と厳しく林屋らの説を批判した。
 しかし今日、武寧王陵碑の発見により『三国史記』系統の史料が正しいことが知られている。『紀』編者も五三一年説の正しいことを知り、五三四年説を捨てたのであろう。したがって、この点からの三品の批判には一定の限界があるといわなければならない。
 すでに継体王権の内部において、たとえば百済対策について深刻な意見の対立のあることをみてきた。たんに一時的な意見の相違というようなものでなく、その根底にあるものは、地方豪族と中央豪族の対決である。また、この間のヤマト朝廷の中枢にあっては、蘇我氏の急速な成長を見逃すわけにはいかない。この蘇我氏は、安閑・宣化天皇をその本拠地のなかで育てたが、それと同時に、欽明天皇側にも堅塩媛を妃として出した。こういうふうに双方に関係をもち、新しい施策をとりはじめたのが蘇我氏であった。
 最終的に勝利したのは欽明朝であり、安閑・宣化朝の敗北は、地方勢力の敗退を意味するものであった。



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