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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     四 継体天皇崩後の情勢
      辛亥の変
 『紀』の矛盾に対し、果敢に批判した最初の人は平子鐸嶺であった(平子鐸嶺「継体以下三皇紀の錯簡を弁ず」『史学雑誌』一六―七)。平子は『上宮聖徳法王帝説』に欽明天皇の在位期間を四一年と記していることをとりあげ、欽明天皇の即位は五三一年、辛亥の歳でなければならないと論じた。
 一方、『百済本記』にいう辛亥の歳に崩じた天皇・太子・皇子とは宣化天皇とその皇子たちであろうと説き、『続日本紀』に大臣巨勢男人が継体・安閑の二朝に奉事したとある記事を挙げ、『紀』の記す男人の薨年である継体天皇二十三年は、すでに安閑朝に入っているとした。かくて平子は『紀』の紀年を大幅に組みかえ、継体天皇の崩年を『記』にしたがって五二七年とし、そのあと安閑・宣化の二朝ののち、五三一年に欽明天皇が即位したし、仏教の公伝は『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』で戊午の歳(五三八年)とされているが、五三八年も欽明天皇の治世なので矛盾がなくなると論じた。

表10 継体天皇の崩年関連年譜

表10 継体天皇の崩年関連年譜
 しかし平子の没後、喜田貞吉はこの説を批判し、平子がみだりに『紀』の紀年を改める弊を鋭く警めた(『喜田貞吉著作集』三)。喜田によれば、継体天皇が辛亥の歳に崩じたことは、『紀』編者が空位二年の矛盾を忍んでまで本文に採用したことにより、疑う余地がない。一方『上宮聖徳法王帝説』が欽明天皇の治世を四一年としていること、『元興寺縁起』が仏教公伝の戊午の歳を欽明天皇七年としていることも、信頼すべき古伝である。継体天皇の辛亥崩は動かすべからず、欽明天皇元年がその翌年であることも疑うべからずとすれば、安閑・宣化の二代を置く途は、欽明朝と安閑・宣化朝の同時併存を認めるほかないとした。昭和三年当時とすれば驚くべき大胆な両朝併立説であった。



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