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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     四 継体天皇崩後の情勢
      継体天皇の崩年
 継体天皇の崩年としては、古来三つの説が伝わっている。第一は『記』の崩年干支が伝える丁未の歳、すなわち五二七年である。しかし、『紀』はこの崩年干支を少しも考慮に入れた形跡はない。磐井の乱の勃発を五二七年に置いているので、もし丁未説をとるならば、継体天皇はこの乱の初期に没し、その鎮圧は継体天皇の治世をはみ出すことになる。『記』は「この御世に、筑紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」と記し、磐井の乱を継体天皇の治世中のこととしている。しかし磐井の乱の絶対年代は若干動く可能性もあり、この点のみから丁未説を否定することはできない。
 第二の説は、『紀』の「或本」が記す二十八年甲寅(五三四年)説である。『紀』は次の安閑天皇の即位を五三四年に置いており、安閑天皇は譲位によって即位したことになっているので、その点、この説は合理的である。
 第三に、一見合理的にみえるこの説を、『紀』自身が覆して、本文には二十五年辛亥説を採用した。これは『百済本記』の辛亥の歳に、「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」とある記事に従ったものである。辛亥は五三一年で、『紀』編者は、譲位によって即位したはずの安閑天皇の即位まで二年の空白の生じる不合理さえ、あえて冒しているようである。



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