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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      筑紫の動乱
 五二七年(『紀』の年立てで継体天皇二十一年)、筑紫の磐井の乱が起こった。磐井の乱は、日本古代史上最大の動乱である。
 ただ、『紀』の記述にだけ拘泥すれば疑問は生じる。新羅に破られた南加羅・喙己呑を回
復するために、六万の大軍を率いる近江毛野を朝鮮半島南部に派遣しようとして、これが磐井の決起の原因となったという。六万の軍勢をヤマトから連れて行ったはずはなく、大部分は九州で徴発する予定であったろうから、これが筑紫の豪族の不満を爆発に導いたことは理解できる。しかし、五二七年には南加羅(金官国)はまだ滅びてはおらず、金官国の滅亡は五三二年とされている。継体天皇はまだ滅亡していない南加羅のために派兵しようとしたのであろうか。
 第二は、いわゆる磐井の揚言の内容である。磐井は近江毛野に対して、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として肩を摩り肘を触りつつ、共器にして同食いき。安ぞ率爾に使となりて、余をしてが前に自伏わしめん」と揚言し、抵抗に踏みきったという。これによると、磐井と近江毛野は昔は同輩として共同生活をしたこともあったらしい。近江毛野はおそらく近江の豪族であろうが、どうして筑紫の磐井と親しくした時期があったのであろうか。通説は、両者が若き日にヤマト朝廷に同じ時期に出仕していたのであろうとするが、むしろ磐井の揚言は、立場の共同性を示す文言として『紀』には類型的な用例であると考えることもできる。
 第三の問題点は、征討将軍の名である。『紀』は大将軍として物部麁鹿火が任命されたと伝えるが、『記』は、「故、物部荒甲の大連、大伴金村の連二人を遣わして、石井を殺したまいき」と記して、荒甲(麁鹿火)と金村の二人が派遣されたと明記する。しかも金村を大連でなく連としている。『紀』はしかし物部麁鹿火の奏上の言葉のなかに、「在昔道臣より爰に室屋に及るまで、帝を助けて罰つ」と述べており、道臣・室屋と、大伴氏の祖先の偉業をあげている。磐井の征討には、大伴金村・物部麁鹿火の両将が任命されたのだが、そののち何らかの事情から、麁鹿火ひとりが将軍として赴任したのであろう。ともかく磐井の乱の鎮圧は、ヤマト朝廷が全力をあげて取りくまなければならない課題であった。
 物部麁鹿火は約一年半の対陣ののち、御井郡の戦いに勝って磐井を斬り、乱を鎮めた。このとき磐井の子である筑紫君葛子は、糟屋の屯倉を献上することによって、死を免れたらしい。これほどの大乱を起した人の長子が、何故に屯倉の献上で助命できたのか、これが第四の不審点である。
 なお、磐井の乱の研究については近年新展開がみられる(『古代最大の内戦 磐井の乱』、『古代を考える 磐井の乱』など)が、こうした動向にも前述の継体天皇即位の実年代の考察は大きな示唆を与えるものであろう。
 磐井の乱の鎮圧後、朝鮮半島に渡った近江毛野は、軍事的にも外交的にもなんらの成果を挙げることができなかった。毛野の無能な暴政は多くの人の忌避するとろことなり、召還の奏言が相次いだ。ついに毛野は召し還され、途中対馬で病没した。遺骸は難波から淀川をさかのぼって近江に至った。その妻の歌、「枚方ゆ笛吹き上る近江のや毛野の若子い笛吹き上る」は、この行路をよく示している。
 毛野は、その氏姓の示すように近江の豪族であったろう。ちなみに、山津照神社古墳(滋賀県近江町)を近江毛野の墓とする説がある(森前掲書)。



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