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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      百済との交渉
 継体天皇六年、百済は使を遣わして、任那の上・下・娑陀・牟婁の四つの県の割譲を求めてきた。の国守穂積臣押山は上奏して、これらの地域は日本から遠くて百済に近く、とうてい維持しがたいから百済の望みに任せた方がよいといったので、大連の大伴金村がこれに同調し、朝議はそれに決した、という。しかし大連の物部麁鹿火と、勾大兄皇子とはこれに反対意見をもっていた。
 これに対し翌年、百済は五経博士段楊爾を送ってきた。そしてさらに、伴跛国が略奪した己の地を返還してほしいと要請した。この年十一月、政府は関係者を集めて協議のうえ、己・滞沙を百済国に与えた。そのため伴跛国は日本に怨みを抱き、翌年その地に赴いた物部連の船舶を焼討ちするに至った。以上が先に示した七・八年条の己・滞沙問題の経緯である。
 これは「任那日本府」とその実態に直結する問題であるが、近年の学界の大勢は「任那日本府」の存在を否定する傾向が強い(井上秀雄『任那日本府と倭』、山尾幸久『古代の日朝関係』など)。しかし、ここではその問題にまで立ち入らない。重要な点は、百済が割譲の見返りとして、各種の文化的な使節を送ってきたことである。五経博士などはその一例であるし、五三八年の仏教伝来もその延長線上にある。すなわち百済の要求を容れ、親百済政策をとったために、日本の文化は大いに進んだといえる。
 しかしこれを喜ばない人びともあった。勾大兄皇子もその一人であることは興味深い。匂大兄は、尾張連草香の娘目子媛の所生であり、おそらく越前生まれと推定される。したがって地方豪族の利害を代弁しうる立場にあった。百済文化の浸透は、地方豪族の利害と一致しない。百済からの知的労働力の流入により畿内の生産力が高まることも望ましくない。畿内東辺はむしろ新羅系文化の影響を多く受けた地域であった。
 百済対策の不一致ほど、継体天皇政権の性格を如実に示しているものはない。政権の中枢に坐る大伴金村ら中央豪族の主導のもとに政局は動いていったが、勾大兄を代表とする地方豪族の根強い不満があった。中央豪族のうち物部麁鹿火のみは勾大兄に同調していたらしい。



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