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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      妥協による継体朝
 オホトは、鉄・馬・米・塩、交易などの実力に加えて、畿内東辺の豪族連合の圧力をもって、大伴氏ら中央の豪族と対決した。しかし武力的抗争にはいったという証拠はない。結局、双方から妥協が図られたのではなかったか。そのための条件が、オホトとタシラカとの政略結婚であった。タシラカは『紀』によれば、仁賢天皇の第三女(『記』では第四女)、武烈天皇の姉にあたる。オホトにはこのときすでに六人ないし七人の妃があったわけだから、これは純然たる政略結婚と考えてよい。
 オホトの長子勾大兄(のちの安閑)は、タシラカの異母妹春日山田皇女を娶った。その弟桧隈高田皇子(のちの宣化)は、タシラカの同母妹橘中皇女(武烈のすぐ上の姉)を娶った。このようにオホトの一族は盛んに前王朝の子女を迎えたが、それは同時に前王朝と女系でつながることによって、その正統性を天下に主張する意味もあった。こうして畿内東辺の豪族連合はヤマト朝廷の中枢に入り、その権力を掌握することになった。
 ついで継体天皇は、大伴金村を大連とし、許勢男人を大臣とし、物部麁鹿火を大連とした。いずれも従来のままである。このように旧来の門閥をそのまま登用しているから、継体王権を新王朝とはみなしがたいとの説もあるが、それは継体天皇側に人事を一新するだけの力がなかったことを示すにすぎない。



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