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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      相次ぐ「遷都」
 『紀』によれば「五年の冬十月、都を山背の筒城に遷す」とある。さらに十二年春三月、「遷りて弟国に都す」とあり、二十年秋九月、「遷りて磐余玉穂に都す」とある。とくにこの二十年条には「一本に云わく、七年なりと」との注がついており、この文言は継体紀全体の紀年を考えるうえに重要な問題をはらんでいるので、あとで詳しく考察することにして、なぜこのように「遷都」が頻繁に行われたかを考えてみたい。
 最初の樟葉宮は、今は楠葉と書き、大阪府枚方市の北端に近い淀川左岸で、船橋川が淀川に合流する付近と考えられる。次の筒城宮は、今は綴喜と書き、京都府綴喜郡田辺町多々羅の普賢寺谷付近と推定されている。第三の弟国宮は、今は乙訓と書き、京都府長岡京市と向日市の境界に近い井ノ内付近と考えられている(図34)。
図34 継体天皇の「遷都」概要図

図34 継体天皇の「遷都」概要図

 樟葉は、桂川・宇治川・木津川の三河川が集まって淀川となる合流点に近く、水陸交通の要衝である。崇神朝の武埴安彦の乱に際し、最後の戦場となったところと伝えられる。古来大きな戦場となったのは重要な地点であることを証する。筒城もまた交通の要衝である。北山城・河内・大和・南近江に通じる道の十字路に位置する。付近には興戸遺跡・薪遺跡(京都府田辺町)など五、六世紀の集落遺跡がある。郷士塚四号墳(京都府田辺町)からは鉄鉗や鉄槌などの鍛冶道具が出土した。多々羅という地名自体、鉄生産を示唆している。弟国もまた交通の要路にある。近くの今里遺跡(京都府長岡京市)は弥生前期から古墳時代に至る大集落で、ここの弥生時代の甕の六一パーセントが近江系であるという。またその西の粟生(京都府長岡京市)の光明寺には、越前系の舟形石棺の蓋が残されている。すなわち近江・越前と縁故のある土地柄であった(森前掲書)。
 以上の三宮地と近接した位置にあるのが、継体天皇陵としてほぼ確実視される大阪府高槻市の今城塚古墳である(第一節)。とくに注目すべきは、今城塚古墳・弟国宮・筒城宮の三地点がほぼ二等辺三角形をなし、その重心に近い位置に樟葉宮が存在するという事実である。いわば初期継体王権の最重要三角地帯ともいうべき場所で、その中枢を最初の樟葉宮が占めているのである。これは淀川中流域に継体天皇の特別な縁故があったことを示すもので、越前・近江以外にも地盤があったとみるほかはない。これは茨田連の線だけで説明がつくであろうか。
 さらに細かくみるならば、この「遷都」が樟葉―筒城―弟国―磐余玉穂の順になっていることが注目される。樟葉から筒城宮への移動は大和へ一歩近づいたことになるが、そこから弟国宮への動きは、再び北へ退いたことになる。この後退を余儀なくさせたものは何であったろうか。これら三つの宮を遍歴していたころのオホトは、はたして天下の主となっていたのであろうか。中央豪族との妥協が成って、オホトが実際に大王位についたのは、樟葉に宮を置いたときか、それとも大和入りを果たした時だったのか。ここに疑問が起きるが、それを考察したのが、のちに述べる継体・欽明朝内乱説である。あるいは、この地域を舞台として展開し、『記』『紀』に先行して述べられる武埴安彦王、および坂王・忍熊王の反乱もそれに関連していたのではないだろうか。



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