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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      継体天皇は平穏に迎えられたか
 『紀』によれば、倭彦王の逃亡後、ふたたび群臣会議が開かれ、大伴金村の主張がとおり、そこで盛大な迎えの軍勢が三国に至った。オホトは胡床に腰をかけ、泰然自若として迎えの人びとを引見した。「すでに帝の坐ますが如し」と『紀』の編者は、その堂々たる態度を讃えている。二日三晩、使者たちを待たせて熟慮のすえ、ついに河内馬飼首荒篭の情報を聞いて、初めて承諾の決断を下し、五〇七年一月、河内の樟葉(大阪府枚方市)におもむき、翌月大王位についたという。 そこで『記』武烈天皇段の記述を再掲しておこう。天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。
 ここに「故」からあとは、主語のない文章である。「袁本杼命を上りまさしめ、天の下を授け奉った」のは、一体誰か。それはここに現われていないが、大伴金村をはじめ、二、三の有力豪族としか考えようがない。しかもこれには条件がある。『紀』には条件として明示されていないが、『記』をみれば、それが明確である。前王朝の血をひく手白髪命(『紀』は手白香皇女)を正妻として娶ることであったと考えられる。
 そのうえ、即位地が変わっている。河内の樟葉で、これまでの王宮の地とまったく関係がない。しかも、これについて『記』『紀』には一言の説明もないのである。このような事情を勘案すると、オホトが大伴金村らによって平穏に迎えられたと考えることはかなり困難なように思われる。仮に武力による衝突がなかったとしても、相当緊迫した情勢を想定しなければならない。



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