目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      倭彦王説話の意味
 ところで『紀』は、武烈天皇が数々の暴虐行為ののち若くして没して後嗣ぎがなかったため、大伴金村はじめ群臣が協議し、オホトを迎えるに先立ち、仲哀天皇五世の孫・倭彦王が丹波の桑田郡にいるのを王位に迎えようと決めたという。しかし大臣・大連はじめ大勢が迎えに行くと、倭彦王は遥かに大兵の迫るのを恐れ、山谷に逃れ去って行方不明になったという。この倭彦王の説話は、たんにオホトの堂々たる態度を賞揚するための対照として描出したのであろうか。それとも何か深い意味があるのであろうか。
 まずこの王が仲哀天皇五世の孫と、オホトが応神天皇五世の孫であるのと同じ五世であることが注目される。これは継嗣令の五世孫までを王とする規定を知ったうえでの造作ではないかとの説を補強するものである。ただしその規定は、王名はあっても皇親の限りではないというのであるから、造作説には都合が悪い。しかし慶雲三年(七〇六)の格によって、五世王も皇親のうちに入れると直されているので、七二〇年成立の『紀』の編者がそれを知って手を加えることは可能である。とはいえ『上宮記』についてはこうした配慮は不可能である。したがって継体天皇に関しては五世孫の記載は動かず、造作されているとすれば倭彦王の数字のみということになる。
 次に丹波国桑田郡という郡名についてはどうであろうか。もとよりこのころの丹波は、後世の丹後をも含むものである。丹後地方が神明山古墳(京都府丹後町)・銚子山古墳(同網野町)など日本有数の巨大古墳を擁し、五世紀代にことに繁栄した土地であることはよく知られている。しかし桑田郡は丹波南部の地域(京都府亀岡市・北桑田郡)で、丹後とはかなり離れており、とくにこの時代の大古墳の存在を聞かない。すなわち天下の主に迎えられるほどの大勢力の発生する土地柄とはいえないことになる。
 以上の二点を総合して、この倭彦王の物語は、継体天皇に威厳をつけるための『紀』編者の創作であった可能性が高いといえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ