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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      海外との交流・交易
 敦賀が海外交流の門戸としての機能を古くからもっていたことは、『記』『紀』に伝えられた数多い説話からも察することができる。『紀』崇神紀の末尾に蘇那曷叱知の来航を伝えるが、垂仁紀には、「一に云わく」として越の笥飯浦に来着したのは都怒我阿羅斯等またの名を干斯岐阿利叱智干岐であると記す(編一四)。李丙は、蘇那曷と都怒我は同音異字であるという(李丙「蘇那曷叱智考」『日本書紀研究』五)。
 『記』『紀』はこのように渡来者の名を伝え、その説話は互いに混交しているが、越前敦賀を中心とする新羅・加羅系の渡来者は、おそらく三人や五人ではなかったであろう。彼らはそこに定着するとともに祖国の文化を伝えたに違いない。式内社として、能登国羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神社、同能登郡加布刀比古神社・阿良加志比古神社、越前国敦賀郡白城神社・信露貴彦神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。
 『日本霊異記』中二四に伝えられた楢磐嶋の説話は、敦賀が商業の一中心地であったことを語っている(第七章第一節)。それは奈良時代の話であるが、『記』『紀』における敦賀の登場の頻度からみて、古墳時代にもさかのぼりうるものであろう。一方、三国湊も奈良時代に渤海使が来着したことが知られている(編二六一)。また、福井市和田防町遺跡から出土した奈良後期の木製井戸枠が、海洋でも航海可能な準構造船の廃材を利用したものであることが判明した。和田防町遺跡は足羽川の川筋に近く、十分溯航可能範囲に属する。こうした船によって福井平野の物資を集め、それを三国湊、さらに敦賀またはほかの港へ運んだのであろう。三国の称がそもそもが越前北半くらいを意味する広い地域であることは、すでに述べた。三国湊の名称は、それが三国という地域の代表的な港であったことを意味している。したがってそれは、決して奈良時代から始まったものではなく、少なくとも五、六世紀にさかのぼる可能性をもっていると考えてもよいであろう。
 こうした海外よりの渡来者の来着、それにともなう知識や技術の伝来、日本海を通じての物資の交流などは、越前の富を高め、ひいてはオホトの実力を増す方向に作用したであろう。



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