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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      地方豪族連合
 『上宮記』の系譜(図30)ならびにオホトの后妃(表8)をみると、そこに特殊な傾向を看取することができる。
 オホトの父系そのものが息長氏もしくは息長グループの系図にほかならないことはすでに述べた。息長氏ならびに坂田氏が近江の豪族であることは、近江に現存する地名からみて否定しがたい。継体天皇に妃を入れた坂田大跨王と息長真手王も、おそらくは継体天皇の近親者で、湖北の有力者であったろう。「王」という王族としての称号は、オホトが大王になったあとの追号かと考えられる。
 『紀』継体天皇条に記載され、『記』に記載のみえない「根王」については、その子が坂田公・酒人公の祖と記されている点からみて、やはり近江の豪族と推測される。その娘の「広媛」が坂田大跨王の娘と同じ名前であるところからみて、あるいは坂田大跨王の重複であるのかもしれない。別人としても、おそらくその近親者で、坂田氏の跡を継ぐべき位置にあったのであろう。一方、酒人公については、『新撰姓氏録』左京皇別には「坂田酒人真人」と記され、息長真人と同祖とする。坂田氏・酒人氏は元来別氏であったのが合体して一氏となったのか、それとも酒人氏は坂田氏から分かれ、坂田酒人氏と名のっていたのを『紀』が前半を落として記載したのかは明らかでない。いずれにしても息長グループは、オホトと婚を結ぶにおよんで、皇親としてさらに勢力を伸ばすに至ったと考えられる。
 しかしそれ以前から息長氏は無名の氏族だったのではない。『上宮記』でオホトの曾祖父となっている意富富等王の妹踐坂之大中比弥王は、允恭天皇の皇后忍坂大中姫命と同一人物であろう。このことは『記』の系譜とほとんど一致することからも確かめられる。しかも近江の坂田の出身であったことは、大中姫の妹が、その母とともに近江の坂田にいたとの記述から確実である。息長氏(もしくは坂田氏)は、数代前に皇后を出すほどの名族であった。このグループの支持は、オホトの声望を大いに高めたに違いない。
 オホトの父系について、もう一つ注目すべき点がある。オホトの祖父乎非王が、牟義都国造偉自牟良の娘を娶ったとの記述である。牟義都は、『和名類聚抄』にいう美濃国武芸郡(岐阜県武芸川町・美濃市・武儀町のあたり)であろう。近江と美濃は隣国とはいえ、美濃市のあたりとは若干隔たっている。むしろ越前と比較的近距離にあることを注意しておきたい。
 オホトの母系に関しては、それが三尾氏の系譜にほかならないこと、オホトに妃を出した二つの三尾氏が越前の豪族であるらしいことはすでに論じた。
 『記』が三尾氏と同祖とする羽咋氏は能登の豪族である。「国造本紀」は加我国造も三尾氏と同祖とする。オホトの母方の祖父乎波智君は、余奴臣の祖、名は阿那比弥を娶っている。この余奴臣は江沼臣であろうという通説を支持したい。すなわち加賀の南半の江沼郡は、オホトの祖母の勢力圏であった。このように、継体天皇の母系の一族は、北陸一帯に勢威を張っていたとみることができる。
図33 段夫山古墳とその周辺

図33 段夫山古墳とその周辺

 さらに重視すべきは、『紀』に「元妃」として記載される尾張連草香の娘である目子媛の存在である。その所生の子が二人まで、安閑・宣化天皇として大王位についていることは、尾張氏の継体政権における重要な地位を物語っている。尾張における同時代の古墳で、尾張連草香の墓かもしれないといわれる断夫山古墳(名古屋市)は、全長約一五〇メートル、この時代の東海最大の前方後円墳であり、尾張氏の勢威のほどを示している(図33)。こうした大豪族と縁組をなしえたという点に、オホト自身の実力がすでに相当世に認められていたことが表われている。
 このように、継体天皇の父系・母系、ならびにその姻戚、またオホトの数多い妃の姻族を連ねるならば、能登・加賀・越前・近江・美濃・尾張と、あたかも畿内を東辺から包むような地方豪族連合の姿が浮かび出るのである。これこそ、オホトを大王に押し上げた最大の原動力であろう。
 



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