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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      鉄と馬の問題
 オホトが武力をもって天下を掌握したのならもちろん、たとえ平穏に迎えられたと考えても、鉄と馬が手中になければ、事は容易には運ばなかったに違いない。
 昭和五十二〜五十四年に発掘調査が行われた天神山七号墳(福井市)において、鉄の刀剣が第一主体部から一一本、第二主体部からも約四〇本発見されている。正確な数は明らかではないが、五〇本を下らない鉄の刀剣が副葬されていた。このように惜しみなく古墳に鉄製利器を納めるということは、おそらく相当豊富なストックがあったものとみなければならないであろう。
図32 椀貸山2号墳出土の馬具

図32 椀貸山2号墳出土の馬具

 越前における鉄生産遺跡としては、有名な細呂木遺跡(金津町)がある。その年代については諸説があって、いまだ定説をみていない。しかし細呂木小学校裏炉跡についてのC14半減期調査によれば、一四〇〇±二一〇年以前と推測され、これは六世紀中ごろを中心として、五世紀中ごろも可能性としては含むことになる(窪田蔵郎『鉄の考古学』)。
 馬については考古学的にはさらに不明確であるが、継体天皇の中央進出に関して重要な情報をもたらした河内馬飼首荒篭は、その名のように河内の豪族であり、しかも馬の飼育に携わっていた氏族と考えられる。荒篭の本拠は大阪府四条畷市から東大阪市のあたりと推定され、このあたりには馬具を出土した古墳時代の遺跡が多いという(森浩一『古墳から伽藍へ』)。このように、早くから馬の飼養の盛んな河内の豪族と通好していたオホトが馬の使用を知らなかったとは考えられない。
 越前において馬具を出土した最も古い古墳は椀貸山二号墳(丸岡町)である(図32)。その馬具の年代は五世紀末か六世紀初めごろと考えられ、継体天皇の興起以前の時期に、越前にも馬がはいっていたことは確実といえる。



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