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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      越前・若狭の塩業
 『紀』武烈天皇即位前紀は興味ある逸話を伝える。権勢をほしいままにした大臣平群真鳥は、「太子」時代の武烈と大伴金村に滅ぼされるのに際して、あらゆる塩に呪いをかけ、天皇の食料とならないようにした。ただ角鹿の海の塩だけ呪いをかけ忘れた。これによって角鹿の塩だけが天皇の食料になったという(編三四)。この説話の意味するところは、おそらくは親平群氏の勢力によって、瀬戸内や東海からヤマトへはいる塩の道が杜絶し、ヤマト朝廷が角鹿の海の塩だけに依存する一時期があったことを反映しているのであろう。したがって角鹿の海の塩の価値は、ある期間非常に大きなものであったに違いない。
 ここで角鹿の海の塩といっているのは、たんに敦賀湾のみでなく、敦賀で集散される越前・若狭一帯の海域の塩を指しているものと考えられる。古墳時代にさかのぼる若狭湾沿岸の製塩遺跡は実に約七〇か所にものぼり、土器製塩の先進地区の一つに数えても過言ではない。このほか敦賀湾から越前海岸にかけても若干の製塩遺跡がある。越前から近江にかけて勢威を張るオホトの実力は、こうした塩の生産圏ならびに輸送ルートに影響を及ぼしえたに違いない。



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